戸田与三郎

From Wikipedia, the free encyclopedia

国籍 日本の旗 日本
出身地 奈良県
生年月日 (1920-02-20) 1920年2月20日
没年月日 1986年[1]
戸田 与三郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 奈良県
生年月日 (1920-02-20) 1920年2月20日
没年月日 1986年[1]
身長
体重
169 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手
プロ入り 1939年
初出場 1940年3月18日[2]
最終出場 1940年4月20日[3]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

戸田 与三郎(とだ よさぶろう、1920年2月20日 - 1986年)は、奈良県出身のプロ野球選手三塁手)、高校野球監督

畝傍中学(現・奈良県立畝傍高等学校)卒業後、1939年3月10日南海軍に入団[4]。翌1940年に一軍出場を果たし、3月18日巨人戦(西宮球場トリプルヘッダーの3試合目だった)[2][3]で初出場。しかし、自身の成績不振と戦局の悪化に伴い、一軍出場の期間は約1ヶ月と短く、4月20日名古屋軍鳴海球場)が最終出場となった[3]1940年シーズン終了後、軍に入営[5]、そのまま現役引退した。

戦後は、奈良県立高田高等学校の監督に就任。高田高校を1955年春の甲子園に導き、ベスト4に入る健闘をみせた(準決勝稲川東一郎率いる桐生高〈この大会準優勝〉に3-6で惜敗)。1976年に息子の戸田哲嗣に監督の座を譲って、勇退した[6]1986年[1]に死去。享年65~66。

僅か16試合、11失策に30打数1安打(打率.033)と全く見るべきではない成績のように思えるが、四球を13個も選んでおり、極めて選球眼に優れていた(ちなみに三振は10個であり、四球より少ない)。1940年3月24日イーグルス戦(後楽園球場)では3打席連続で四球を選び、南海の勝利に貢献した[7]出塁率は.326にもなり、IsoD(出塁率-打率)が.293と驚異的な成績を残している[8]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1940 南海 16443051000100--1013--010--.033.326.033.359
通算:1年 16443051000100--1013--010--.033.326.033.359

背番号

  • 10 (1939年 - 1940年)

脚注

外部リンク

関連項目

Related Articles

Wikiwand AI