戸田与三郎
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畝傍中学(現・奈良県立畝傍高等学校)卒業後、1939年3月10日に南海軍に入団[4]。翌1940年に一軍出場を果たし、3月18日の巨人戦(西宮球場。トリプルヘッダーの3試合目だった)[2][3]で初出場。しかし、自身の成績不振と戦局の悪化に伴い、一軍出場の期間は約1ヶ月と短く、4月20日の名古屋軍(鳴海球場)が最終出場となった[3]。1940年シーズン終了後、軍に入営し[5]、そのまま現役引退した。
戦後は、奈良県立高田高等学校の監督に就任。高田高校を1955年春の甲子園に導き、ベスト4に入る健闘をみせた(準決勝で稲川東一郎率いる桐生高〈この大会準優勝〉に3-6で惜敗)。1976年に息子の戸田哲嗣に監督の座を譲って、勇退した[6]。1986年[1]に死去。享年65~66。
僅か16試合、11失策に30打数1安打(打率.033)と全く見るべきではない成績のように思えるが、四球を13個も選んでおり、極めて選球眼に優れていた(ちなみに三振は10個であり、四球より少ない)。1940年3月24日のイーグルス戦(後楽園球場)では3打席連続で四球を選び、南海の勝利に貢献した[7]。出塁率は.326にもなり、IsoD(出塁率-打率)が.293と驚異的な成績を残している[8]。