手力雄神社 (各務原市)
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| 手力雄神社 | |
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いちょう通りから見た様子 | |
| 所在地 | 岐阜県各務原市那加手力町4 |
| 位置 | 北緯35度24分31.28秒 東経136度49分19.15秒 / 北緯35.4086889度 東経136.8219861度座標: 北緯35度24分31.28秒 東経136度49分19.15秒 / 北緯35.4086889度 東経136.8219861度 |
| 主祭神 | 天手力雄神 |
| 社格等 |
旧郷社 金幣社 |
| 創建 | 6世紀 |
| 本殿の様式 | 流造 |
| 例祭 | 4月28日・29日 |
| 地図 | |
手力雄神社(てぢからおおじんじゃ)は、岐阜県各務原市那加にある神社。各務原市那加地区の産土神(那加総社)で、各務原市内金幣五社の一社である。
6世紀末期ごろ中里(現那加地区)を支配していた豪族により、佐良木郷八ケ村(西市場、新加納、前野、北洞、岩地、長塚、桐野、山後)の山の中腹に磐座を祀ったのが始まり。この磐座は現在も真幣明神(みてぐらみょうじん)として祀られている。
元々は真幣明神(美濃国神名帳)という名の神社でという。壬申の乱で功績を挙げた村国氏・各務氏、また承久の乱以降守護家として土岐氏、また土岐氏の家来にあった薄田(すすきだ)氏、佐良木(更木)氏と時代の中で諸豪族に崇敬と手厚い保護を受ける。
永禄10年(1567年)、織田信長は当社で稲葉山城攻めの戦勝祈願を行い、戦勝後は広大な社領を寄進したという。寺社勢力にも容赦ない攻撃で臨んだ信長にしては珍しいが、これは信長が各務原へ攻め入り、周囲の寺を焼き払って当社に迫ったところ、霧が立ち込め体の自由が利かなくなり落馬したことによる。信長はこれを神罰と恐れ、以後崇敬し各務野原近里(現在の那加地区・尾崎団地・航空自衛隊岐阜基地・市役所一帯)千三百町歩を社領に付し、宝物等を寄進し文化財として今日に至る。
その後も旗本坪内・徳山等諸氏の崇敬も深く、数百年来八ヶ村氏子崇敬者により神事・祭礼・造営修復事業が変わりなく奉仕される。1879年(明治12年)に郷社となる[1] 。現在は那加地区(那加、尾崎)総社として崇敬されている。信長が戦勝祈願したことから、今日では、勝運・開運の神としてスポーツ関係等各種団体の勝運・必勝祈願の参拝者で賑わう。
祭神
境内社
飛地境内地
主な神事[1]
文化財
名称
この神社は「てじからおじんじゃ」「てぢからおじんじゃ」「たぢからおじんじゃ」などと一般には呼ばれているが、神社の在る各務原市の神社を統括している岐阜県神社庁各務原市支部が毎年1月初頭に発行する「新春 各務原市金幣社 五社巡り スタンプラリー」の台紙には、「手力雄」の部分に「てぢからおお」ときちんと記されている[6]。
逸話
手力雄神社(岐阜市)と手力雄神社(各務原市)の関係
岐阜市の手力雄神社は、860年(貞観2年)創建とされるが、各務郡と厚見郡の有力者、各務吉雄と吉宗の手により各務郡の各務氏の氏神(各務原市の手力雄神社)を厚見郡に分祀したといわれている。別の説では、朝廷の宮中の祭神を分祀したものであり、元々の祭神は伊勢神宮の天手力雄神であるという。
各務原市の手力雄神社は「手力」の初見が永禄10年(1567年)のことで信長公が寄進した宝物に記載されるとのことで、その前には「長塚宮」文明7年(1475年)とある(これは拝殿北側の箱棟(1682年)には卍型が残っており神仏習合の名残りがある為混同したのではないか。)。古くは938年から956年に編纂された美濃国神名帳では「真幣明神」他、現在の相殿神の神名も見られ、古墳時代の後期(6世紀後半)の古墳も存在することから古い時代より神聖な場所として信仰があったことが窺い知れる。
岐阜市下川手には各務吉雄が祀ったと伝わる石切神社がある。こちらは各務氏の祖神(鏡作りの祖)石凝姥命を祀っているという。各務氏が天の岩戸に関わる神を佐良木郷八ヶ村山中に祀った(938年 - 1567年の間、実際には各務氏が勢力を持っていた頃なので前半頃)とすれば自然である。
岐阜市の手力雄神社と各務原市の手力雄神社は近いこともあり、混同することがある。そのため、それぞれの神社では混同しないように呼びかけている[7]。

