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探検部

野外活動を主とした探検を行う大学のクラブ・サークル From Wikipedia, the free encyclopedia

探検部(たんけんぶ)は、学生課外活動(クラブ活動・サークル活動)においてアウトドア活動やフィールドワークを中心とした探検を行う団体である[1][2][3]。日本初の探検部は京都大学探検部であり[4][5][6][7]、1956年3月に京都大学山岳部から独立して創設された[4][5]。それを発端に、日本全国の大学に広がった[6]。

穂高岳(長野県)の鎖場を通過している様子
イザナギプロジェクトによる河内風穴の案内。学生探検部も案内に参加した。

本項では主に、日本の大学における探検部について述べる。

活動内容

探検部で行われる主な活動(山岳探検)
大雪山系黒岳のトレッキング
沢の遡行(北海道)
雪上歩行(北海道)
探検部で行われる主な活動(河川探検・洞窟探検)
河川探検の一つ、ラフティング
北海道でのケイビング
岡山県阿哲台でのケイビング

探検部の活動は、「探検」という言葉に即したクラブ活動である[1][3]。登山やラフティング、ケイビングなどの野外活動を行う団体が多い[8][1]。単に野外活動を行うだけでなく、その準備において資料の収集や計画書の作成を行い、活動実行の際にも地図読図や記録映像の取得、終了後には報告書作成などが行われる[1]。

探検部で行われる探検活動やそのフィールドは様々である[9]。ここでは、『法政大学探検部50年史』が類型化した例および水野 (2008) が関西大学探検部の資料を類型化した例に基づいて紹介する[1][10]。

  • 調査活動[10] - 探検の歴史において重要な活動は調査であるが、それぞれの分野で方法論が確立しており、大学探検部ではそれを習得するのは困難である[9]。考古学、地理的測量・観測、生態・植生、社会学系、伝統再現、謎・神秘などのカテゴリーに分けられる[11]。具体的には、林冠探検[1]・密林遺跡探査などの活動がある[11]。また、下記の洞窟探査活動や[12]、海底遺跡調査(海底探検)なども調査活動の一つである[13]。
  • 山岳活動[10](山岳探検[1]) - 登山など、山岳地域をフィールドとして行われる活動を含む[1]。未踏峰の登山などが目的とされる[1]。ロープを用いたクライミングや、河川を遡上する沢登り、厳冬期の冬季登山(雪上歩行・アイスクライミング)なども行われる[14]。
  • 河川活動[10](河川探検[1]) - ゴムボートで川を下るラフティングや、カヌー・カヤックを利用した探検活動[1]。地理的空白の探検活動は難しい[15]。
  • 海洋活動[10] - シーカヤックやダイビングなど[16]。
    • 海洋探検[1] - 河川探検と同様にカヤックを用いて行われるが、海上で行われる探検活動[1]。
    • 海底探検[1] - スクーバダイビングなどにより海底での調査を行う活動[1]。
  • 洞窟探査活動[10](洞窟探検[1]) - 鍾乳洞や海蝕洞・溶岩洞窟などの洞窟を探検調査(ケイビング)する活動[1]。洞外で山狩りなどをして洞口を探す新洞探査なども行われる[17]。また、海外遠征で氷河洞を探検した例もある[18]。(#洞窟探検と洞窟学への貢献節も参照)
  • サバイバル訓練活動[10] - 今回は無人島活動や樹海での活動が含まれる[19]。海外活動への準備や、純粋な興味から行われることが多い[19]。
  • 水平移動・長距離移動活動[10] - 当初は未開の地への旅を目的としていたが、時代とともに未開の地がなくなってゆき、自転車旅行などといった活動も多くなっていった[20]。徒歩による砂漠横断なども行われた[1]。

上記以外に、合宿や歩荷などの活動もある[1]。

活動形態

1964年以降の大学探検部では、活動の形態が多様化した[21]。法政大学探検部OBの岡村隆は、「ある程度の限界が見えてきた」としたうえで、次のように類型化している[21]。

  • 学術調査型 - 学術調査を目指して行うものであり、京大探検部の学者を隊長に戴き行った「学術調査隊」の流れを引くもの[22]。実力と成果、社会的意義などに種々の問題が指摘され、根源的意義が問われたが、根強く続けられている[21][注釈 1]。
  • アドベンチャー型 - 探検の理念とは別に、より直接人間の行動の可能性を追求しようとするもの[25]。川下りや漂流実験のように、踏査を目的としている[25]。
  • ぶらり旅行型 - ザック1個を背負い、2–3人でふらりと出かけるようなもの[26]。1964年以降に急激に増えたとされる[25]。
  • 団体登山・訓練型 - 形式的には山岳部やワンダーフォーゲル部と変わらないもの[25]。
  • 社会派型 - スラム街潜入など[25]。

関連する団体

大学で同様のアクティビティを行うクラブ・サークル団体に、山岳部(山岳会)、ワンダーフォーゲル部、ケイビングクラブ(地底研究部・洞穴研究会なども含む)などがある。しかし、探検部には登山やワンダーフォーゲル、トレイルランのような決まった目的はない[27]。

生態学者で、探検部顧問であった吉良竜夫は次のように論じている[28]。

山岳部、ワンゲル部に加えて探検部、いまの学生団体にはよく似たこの3つがあって、見かけはおなじようなことをやっている。休みにはたいてい山に入るか、離れ島や人跡のまれな地方にでかけ、またどれも海外への遠征旅行をねらっている。どこが違うのか外見だけではわからない。さしあたりわれわれの問題として、探検部はどこに特色があり、なにをやるところなのだろうか。
名前だけからいうと、探検部がいちばんすごいことをやりそうだが、現実はかならずしもそうではない。むしろ企画のスポーツ性においても、独創性においても、探検部が3つのうちで一番見おとりするような気がしないでもない。このへんで一度考えなおし、反省してみる必要があるのではないか。
探検部の最大の目標が、海外の未開地の踏査にあることには、異論は少ないだろう。しかし、海外遠征はそうたびたびはできないし多数が参加するわけにもゆかない。在学4年間に1度海外へ出るチャンスをつかんだ部員は幸運であるとしなければならない実情だとすれば、毎年の内地での事業にもっと知恵をしぼるべきだろう。もちろん、探検の対象となるような未開地が内地にあろうはずはなく、また本格的な探検をやる実力を学生にのぞむのも困難だろう。しょせん内地でやれるのは探検の手ならいであり、まねごとにすぎないだろうが、あくまでそれは“探検”の手ならいでなくてはならない。参加者が“探検”の気分を味わえるような内容のものでなくてはならない。でなければ“探検部”の名が泣くだろう。
“探検”は“探険”ではない。なにもあぶないことをやれというのではない。生命の危険をともなうような探検の対象は、世界中でもう南極大陸くらいにしか残ってはいないのだから—。この意味で、探検の黄金時代はとっくに過去のものとなっている。しかし、この世界にまだ未知のものが残っており、その未知を既知に変えるために、肉体的に自然の抵抗とたたかう必要があるかぎりは、探検精神を発揮して“探検”をやる余地は残っているのである。私のいいたいことはこの点につきる。
—吉良竜夫、市大探検 第3号(1962年10月23日)

日本における歴史

前史

今西錦司
桑原武夫

1931年、第三高等学校山岳部出身の今西錦司、西堀栄三郎、桑原武夫らによりAACK(Akademischer Alpen Club zu KIOTO、のちの京都大学学士山岳会)が結成される[29][30][31][32]。木原均を会長とし[29]、ヒマラヤ探検を目標としていた[30]。しかし、満州事変勃発の余波によりこの計画は断念した[30][33]。

1934年から1935年にかけて今西らは、京都帝国大学白頭山遠征隊を組織し、学術探検を行った[7][30]。1939年、今西は木原を隊長とする京都帝国大学内蒙古学術探検隊の一員として草原を調査し、探検を意識するようになった[30]。そして同年、京都大学総長の羽田亨を会長とする京都探検地理学会が設立された[34]。1941年に探検地理学会ではミクロネシア・ポナペ島で学術探検を行い、また翌年にはその参加者を中心としたメンバーで北部大興安嶺の縦断に成功した[30][34][31][35]。しかし、終戦直後、GHQに睨まれて探検地理学会は自主解散した[33][35]。

1947年、京都大学山岳部が結成される[33]。当初、京都帝国大学には旅行部のみがあり(1941年に大学当局により解散)、京大に初めて登場した山岳部であった[33]。はじめはスキー山岳部として部員が募集されたが、間もなく山岳部とスキー部に分かれた[36]。山岳部は、活動を再開したAACKがスポーツ・アルピニズムへの傾斜を強めていった影響を受け、やはりアルピニズムを掲げ、かつての旅行部が持っていた探検志向の要素を持たずに活動していた[36][33][37]。

探検部創立前夜

1955年、木原均を隊長とするカラコルム・ヒンズークシ学術調査隊が氷河地域を踏査した[38][4][39]。メンバーは、今西錦司や中尾佐助に加え[4][40]、川喜田二郎、藤田和夫、梅棹忠夫(当時大阪市立大学助教授)らであった[39]。

京都大学山岳部の現役部員たちの間で、海外遠征登山の実現を望む動きが活発になった[40][35]。しかし、若手OBらはそれを時期尚早と判断して反発し、それに反論する現役部員との間に論争が起こった[40][33][37]。本多勝一ら2回生部員が中心となって、遠征対象としてカムチャツカやネパールヒマラヤなどを検討するうち、11月には今西や中尾らによるパキスタンとの合同調査の助言を引き出した[4][40][注釈 2]。

1956年1月20日から、海外調査歴が豊富な講師らによる探検講座が開催された[40]。この探検講座は2回生の本多が世話役となり、京都大学楽友会館で行われた[40]。これにより、現役学生たちの多くが海外遠征を身近に感じ、学生による遠征を実現しようとする機運が高まった[40]。毎回若手の山岳部OBたちと遠征に強い関心をもつ現役部員たちが10人以上出席し、全部で20人を越える日もあったという[40]。講師およびテーマは、以下の通りである[40][7]。

  • 第1週 - 今西錦司「イントロダクション」、中尾佐助「資料写真の撮り方」
  • 第2週 - 川喜田二郎「フィールド・ノートのとり方」
  • 第3週 - 桑原武夫「探検精神・冒険精神・その他」
  • 第4週 - 藤田和夫「遠征準備の秘訣」
  • 第5週 - 梅棹忠夫「異民族との接触」
  • 最終週 - 講師全員「過去5週間の反省と今後の問題」(1956年3月2日)

京都大学探検部創立

学術探検隊が組まれたヒンズークシ(ヒンドゥークシュ山脈)

1956年3月2日に開催された探検講座最終回ののち、今後の問題が話し合われ、「互いに了解の上で、以後は登山を主とする山岳部と探検を主とする探検部の二つが存在すればよい」という結論に達した[40]。ここで京都大学探検部創設の準備が整い、すぐに学生文化団体としての探検部設立の趣意書が作成された[40]。

同年3月5日、当時4回生部員であった高谷好一が探検部設立の趣意書を京大学生部に提出し、3月12日に日本初となる探検部が大学当局に認可された[40]。なお山岳部と探検部は協議の結果、当面は同一人が二つの部の双方に同時に在籍することは認めないとした[40]。初代部長は京都大学理学部教授の芦田譲治であった[40][5][注釈 3]。顧問は今西錦司のほか、梅棹忠夫、川喜田二郎、藤田和夫、中尾佐助らであった[5]。

京都大学探検部設立直後の1956年7月、機関誌『探検』の第0号が発行される[5]。1954年の今西らのヒンズークシ学術探検隊の学生版を目指して設立されたこの探検部では、1956年7月に早くもパキスタンのパンジャブ大学と合同でヒンズークシでの現地活動を展開した[38][44][35]。翌年にはスワート・ヒマラヤ探検隊が派遣され、シャハーン・ドク峰などでの調査がなされた[38]。これらの遠征隊の成功は部報を通じて「山岳部から独立した探検部」の成果として報告され、京大外にも影響を及ぼすこととなった[38]。

大学探検部の創立黎明期

遠征やパイオニアワークをめぐる京大山岳部内の議論は、探検志向の山岳部員たちの潜在意識を強く刺激し、各大学で山岳部を辞めて探検部を創るという流れを引き起こした[38][注釈 4]。京大の後を追い、その後の数年間に大阪市立大学、関西大学、横浜市立大学、大阪大学、早稲田大学、上智大学、東京農業大学、東海大学をはじめとして、探検部が次々に設立されていった[23][8][45](詳細な年表は後記)。大阪市立大学では、1957年7月に発行された科学雑誌『フィールド』第3号で「地理調査会(仮称)」として結成が呼びかけられ、1958年4月には「探検部」として入部が呼びかけられた[39]。結局同年12月に結成されたが、部長には村松繁樹、顧問には川喜田二郎、吉良竜夫、藤田和夫、梅棹忠夫、笠間太郎、川村俊蔵、朝日稔らが迎えられた[39][注釈 3]。

前身が山岳部であった大学探検部は多いが、やがて山や登山とは関係なく、海や砂漠、森林、河川、洞窟などを探検のフィールドとして、そこでのパイオニアワークを目指そうとする部員や、最初から学術調査を目指そうとする部員が集まりだした[8]。

これらの探検部がまず目指したのは、海外での探検活動だった[23]。当時の日本では、学生による海外遠征は困難であった[23][39]。1964年までは、探検隊や登山隊として海外渡航を行うには外貨審議会の承認を受けなければならなかった[23]。そこで、こういった大学探検部では、大学教授を隊長に置いて学術調査という大義名分を唱え、文部省などの公的機関から後援を得ることで遠征を行った[23]。例えば、東京農大や東海大はネパールに、早稲田大はオーストラリアに、大阪市立大はカンボジアに遠征したが、いずれもこの型のもの、すなわち大学アカデミズムとジャーナリズムを後ろ盾とした遠征であった[23][24]。

年表

海外渡航の自由化に伴う大衆探検の時代

1964年4月1日になると、海外渡航の自由化を機に、事実上の「鎖国」が解けて海外旅行が容易となった[23][24]。これを受けて、全国の各大学にも新たな探検部が生まれていった[23]。首都圏や関西圏の大学だけでなく、地方の国公立大学や女子大にまで探検部や類似サークルができていった[24]。

既成の探検部は変容を始め[23]、遠征隊の派遣様式はそれまで行われていた学術調査的大遠征から、部員の個人的な企画による多様な海外活動へと移行していった[26]。大義名分に束縛されることなく、自然な形でより深く現地に入り込むことで、探検にとっての本質的な成果と、個人への直接的な還元が得られるようになった[26][56]。この時期に在籍し、活躍していった世代は、京大探検部の創部理念や、本多勝一が朝日新聞記者として発表する探検論、大学間の探検部員の刺激され、影響を受けて活動していた[57]。その多くは探検部という組織よりも、個人としての立場でパイオニアワークを追求しようとした[57]。

岡村隆は1974年には、個人的体験を重視することで、パイオニアワークを目指す方向を欠き、探検でのトップレベルに位置しようとする意志を失ってしまうようになったのではないかと論じている[26]。しかし後年には、「この時代までの探検部は国内外の活動数も非常に多く、それなりにパイオニアワークを追求しようとする部員たちの意識も含めて、まだ『健在』であったと言えるのかもしれない」と振り返っている[58]。

年表

大学闘争と探検ブーム、探検部解体論

1960年代後半の東大紛争や日大紛争に始まった大学闘争は、探検部が全盛期を迎えた時期と重なっており[57]、この時期を経て探検部は次の時代に入っていった[75]。大学探検部は、内側に大学闘争がもたらした重苦しい雰囲気を抱えながら、外部ではさらに進行していく「探検の大衆化」「探検ブーム」を見て、戸惑い、思索を深めながら活動する時期を迎える[76]。

大学闘争は学生たちが「大学とは何か、学問とは何か」を自他に向かって投げかけた闘争であり、探検部員もその煽りを受けた[75]。特に、自分が志す探検の中に、学部の学問よりも大事なものがあると感じていた探検部員にとっては、「探検部とは何か、探検部員たる自分は何か」という問いに置き換えられ、自分に向けられることになった[75]。そのような中で、本多も「今の時代には探検部をつぶすことが最も探検的かもしれない」という主旨の発言をしたと語られる[25]。各大学で探検部解体論が唱えられ、東大の探検部はこの時流に乗り、解散してしまった[21][75]。解散を主導した東大探検部出身の黒田洋一郎(筆名 みなみ・ゆう)は、「解体を叫ばれた東大で自ら解体した唯一の既成組織だった」と述べている[21][75][注釈 12]。京大では解体までは至らなかったが、一部部員によって部室の封鎖が行なわれ、事実上の休部状態に陥った[75]。

京大を含む多くの大学探検部はその後、こうした問題を「行動するなかで考え直そう」ということで活動を再開した[75]。大阪市立大学では、大学闘争に伴う「科学」の胡散臭さへの指摘を受けて、近代科学に立脚した探検のあり方に対しても疑義が提起される中で、自らの知的未熟さを知りながらも、建前としての科学の純粋性にしがみついて探検活動を計画するよりも、もっと根源的な知的好奇心の発露としての「旅」に自分たちの根拠を求めようとし、個人的探検の時代に突入する[79]。

一方、世間では探検ブームが進行する[76]。1970年には文藝春秋が全8巻の『現代の冒険』シリーズを刊行し始める[76]。次いで山と溪谷社が季刊雑誌『現代の探検』を創刊し、第9号まで継続する[76]。さらに1972年には、朝日新聞社が探検の思想や方法論までを盛り込んだ『探検と冒険』全8巻を、1年間で刊行した[76]。これらはいずれも世の探検ブームを煽りつつ、ブーム便乗には見えないほどの高水準を保った刊行物であったため、その後の探検部員たちにも大きな影響を与えたとされる[76]。

こうした探検部を取り巻く状況の変化を受け、1970年6月には法政大学白馬山荘にて全国の探検部OB・現役部員が集まり、「たんけん会議」という集会が開催される[80][21][76][81]。これは東京農業大学・日本大学・駒澤大学探検部の呼びかけにより、上智大学・法政大学を加えた5校が主催したもので、「過去の探検部活動を総括し、今後の展望を模索する」という目的を掲げて行われ、4日間にわたって約60人が討議を繰り広げた[21][76][81]。この討議により全国大学探検部の活動史を編纂する事業の開始が決まり、1973年には、『戦後学生探検活動史』が発行された[76]。これは、日本観光文化研究所(観文研、当時の所長は民俗学者宮本常一)のもとで行われ、観文研の向後元彦(東京農業大OB)、宮本千晴(都立大OB)、森本孝(立命大OB)、伊藤幸司・小川渉(早大OB)の支援の下で、平靖夫・岡村隆により資料収集・編纂が行われた[76]。

同時期に、向後が観文研に「AMKAS」(あるく・みる・きく・アメーバ集団)という探検愛好家のグループを組織し、全国の探検部員やOBが集うようになっていた[76][82]。1979年には、東京外国語大学山岳部出身で読売新聞記者の江本嘉伸が、向後や宮本らを誘って「地平線会議」を設立した[76]。この団体は30年以上にわたって探検部員たちに交流の場や情報交換の場となった[76]。

年表

バブルと探検部の弱体化

1980年代終盤からは、バブル景気の影響で豊かになった社会から多くの学生らが探検部に入部し、レジャー感覚でカヌーや自転車旅行を楽しんだり、個人的な海外旅行を繰り返したりしたのち、途中退部していく例が増えてきた[93][43]。これは、当時OBの指導体制が瓦解し、人と人を通しての創部理念の伝達がなされなかったことが要因の一つであるとされる[43]。世間でも、1970年代初頭に発行されていた探検系の出版物は消え、代わってアウトドア雑誌や『地球の歩き方』が主流となっていった[93]。探検部からも、パイオニアワークが消えていった[93]。岡村はこれを探検部の「低迷・弱体化時代」であるとしている[43]。

探検部の「専売特許」の終焉

1990年代にはバブル崩壊が起こり、探検部は部員減少時代を迎える[93]。マスコミで話題となるような探検や冒険は、探検部外の人間によりなされる例が増えてきた[93]。岡村はこれを「探検部の"専売特許"時代の終わり」と表現し、探検部は必要とされない時代に入ったと論じている[93]。

大阪市立大学探検部でも、1980年代後半には河内風穴の測量等で洞窟活動が盛んであったが、1990年代に入ると洞窟活動を行う部員がいなくなり、洞窟技術の伝承ができずに途絶えてしまった[94]。1990年代後半からは現役の熱意とOBの協力により再興し、再び洞窟活動が定着して中心的活動となったが、測量技術は失われ、スポーツケイビングとなってしまった[94]。その後、他大学との連携により測量を教わることで復活させるに至った[95]。

そのような中でも先鋭的な個人が現れる例があり、早稲田大学の角幡唯介が挙げられる[93]。角幡は本多勝一以来の「探検部を象徴する人物」と目されているとされ、岡村は探検部の総体としての命脈はこのように優れた個人が登場することで探検部が注目されることで保たれてきたのかもしれないと論じている[96]。

探検部の減少と大学間での連携

2000年代以降は、さらに少子化による学生の減少やインターネットの普及による情報入手の容易化などから、探検部の減少が顕著になった[97]。部員減少が進んだ大学から次々と、探検部の自然消滅や自主廃部が起こった[6][93][97]。

残った探検部でも、社会や大学当局による「学生の管理化」が進み、部員が活動に当てられる日数は減ることで、活動の多様性が減少した[93][6]。文部科学省は、1科目につき15回の講義を実施することを大学に厳しく求め、助成金や研究予算の問題から大学はそれに従うしかない現状にある[6]。それにより学生は、かつての探検部員とは比べ物にならないほど授業を詰め込む次第となり、学費が高騰して生活費を捻出するアルバイトに時間を費やすと、探検ができる時間を割くのは困難になる[6]。「海外遠征」と銘打つ活動も珍しくなった[93]。法政大学探検部は1990年代には安定して活動が行われていたが、2003年を過ぎるころには、部の存続が危ぶまれるほど部員数が減少するようになっていった[98]。立命館大学探検部でも、部員減少が甚だしく、部員1人になってしまった時期もあった[6]。かつては多くの部員が在籍していた早稲田大学でも、他大学からの入部者を受け入れることで辛うじて活動ができるという現状を呈するに至った[93]。

2020年代には、2020年から2022年にかけての新型コロナウイルス感染症の世界的流行の影響を受け、多くの団体が一時的または長期的に活動停止することとなった[99][100][101][102][103]。これにより、活動停止期間中に新入部員の勧誘ができず、活動もできなかったため、技術継承が困難となった[99]。その後、一部の団体では社会人ケイビングクラブやOBの支援により、技術の再導入が行われた[99]。

年表

  • 1992年、関東学生探検連盟(関探連)が設立[104]。
  • 2006年、現役部員がいなくなったことにより、明治大学探検部が廃部[62]。
  • 2020年、東京学芸大学自然文化誌研究会冒険探検部(学大探検部)が廃部[7]。

洞窟探検と洞窟学への貢献

先述の海外渡航の自由化などを経て大学探検部が「地理的空白を埋める」探検活動が地上では行いにくくなっていく中、地下には依然として地理的空白があった[105][106]。そのため、日本国内では学生探検部によって洞窟探査活動が行われ、多くの新洞窟が発見されることとなった[106]。

また、九州大学探検部出身の西田民雄(層位学・古生物学、佐賀大学教授)[107]、吉村和久(分析化学、九州大学教授)[108]、浦田健作(カルスト地形学者、大阪経済法科大学客員教授[109])[110]が知られるように、洞窟学研究者を輩出している。

前史

愛媛大学学術探検部が発見し、観光洞化された昇竜洞(沖永良部島)

日本における洞窟探検(ケイビング)は、ケイビングという用語がまだ日本にはなかった1920年代に、恵藤一郎、山内浩、上野益三、鳥居元、鹿間時夫らによって研究が行われ始めた[111]。1950年代から、吉井良三、上野俊一らによって洞窟性動物の調査を目的として日本各地の洞窟の調査が始まり、1955年には日本地下水生物研究会が設立された[112][113]。これ以降、ケイバーたちによって共同調査が始まり、山内浩によって1957年に四国ケイビングクラブ、そして1959年に日本ケイビング協会が設立された[114][115]。

探検部の設立以降

1960年代になると、前述のように各地に大学探検部が設立され始めた[114][116][115]。東西の大学探検部による活動が活発化して日本各地の洞窟で探検が行われるようになっていき[116]、日本のケイビング界が大きく進展した[114]。特に、山口洞穴研究会および愛媛大学学術探検部は、活動のフィールドを洞窟に絞った探検部である[115]。また、関西大学探検部も1960年代に洞窟探検において活躍した団体として挙げられる[116][115]。

1960年、山口大学洞窟調査会が発足し、同年8月26日から27日に秋芳洞水源地およびこうもり穴で第1回調査が行われた[50]。1962年には洞穴研究会に名前を変え、秋吉台の調査を進め、新洞・新空間の発見や洞窟測量を行った[50]。1963年から1966年にかけて、秋吉台の蛇ヶ穴の調査を行い、最深部まで120 m ある竪穴の底に、天井高 30 m、長径 140 m、短径 100 m の巨大なドーム状のホールがあることを明らかにした[115]。なお、この洞窟は石灰石の採掘により消滅している[115]。

1961年に創立された愛媛大学学術探検部は[52]、日本での洞窟探検の初期から洞窟探検を行っていた[114][115][117]。1963年には山内浩(同大教授)らを中心として、琉球列島で洞窟調査を行い[118][119]、沖永良部島で昇竜洞を発見した[120]。

1964年8月には、立命館大学探検部が岩手県の氷渡洞で以前から知られていた約 70 m の洞窟の奥に 2,000 mを超える空間があることを発見した[121]。

愛媛大学学術探検部は1965年から1968年にかけて岡山県洞穴群学術調査を行った[52]。1968年6月になると、岡山大学ケイビングクラブが誕生し、岡山県下の洞窟調査が進められてゆく[122]

関西大学探検部は1965年から1975年にかけて、青海町(現、糸魚川市)マイコミ平で調査を行い、日本最深の洞窟である白蓮洞、次点の青海千里洞、第3位の奴奈川洞の探検・測量を行った[123][124][125]。1976年8月、長門ケイビングクラブが白蓮洞の測量調査を行い、より精度高い測量を行ったが、集中豪雨のため隊員が3日間閉じ込められる事故が発生する[124][126][127]。5日後に全員が救助されるが、事故を受けてマイコミ平周辺の洞窟群への入洞が禁止されてしまう[128][129]。これらの竪穴調査はラダーにより行われたが、以降緩やかに衰退していくことになる[116]。

1969年7月には、愛媛大学学術探検部が大分県津久見市の胡麻柄洞の調査を行った[130]。総延長は 1,000 m 以上、高低差 215 m あったとされるが、現在は胡麻柄山の石灰岩採掘により(山体ごと[131])消滅している[132]

1969年には、横浜市立大学探検部が沖永良部島で第二洞を発見し、総延長1,468 m までを報告した[133]。翌年も再度探検され、大山洞に改称される[133]。この洞窟はのちに日本有数の大洞窟であることが判明し、大山水鏡洞と呼ばれることになる[133]。

洞窟学会の設立前後

1970年代には、大学が合同で調査隊を組んで調査を行ったり、大学探検部出身の人物がそこを離れてケイビング団体を設立したりするなど、日本のケイビング界はさらに発展を続けた[134]。1975年には洞窟の学術的知見を扱う日本洞窟学会が設立された[135][116][136]。この時期には、各地の探検部によって国内の主要なカルスト地域の総合調査が行われるようになった[137]。

安家洞周辺の安家石灰岩体では、関西大学探検部が創立以来探検してきたが[115]、70年代には関西・関東の大学が合同で調査隊を編成し、数次にわたって調査した[134]。1973年になると、菊池正志らがアッカソサイエティが結成し、この団体が学生ケイバーをまとめて調査を行い、安家石灰岩体の洞窟群が明らかとなっていった[134][138]。

1970年、高知大学学術探検部は結成からわずか1年後に、満塩大洸(理学部教授)のもと、高知県下に分布する69ヶ所の洞窟を報告した[87]。

1971年から1975年にかけて、愛媛大学学術探検部は熊本県球磨村洞穴群学術調査を行った[52]。その結果、1973年に発見された熊本県の球泉洞は1975年に観光洞化し[52]、現在でも観光洞として用いられている。1981年までの調査で、球泉洞は総延長 4,685 m(メートル)に達した[139]。

1977年、明治大学地底研究部は米国でシングルロープテクニック (SRT) を学び、定期刊行誌『JAPAN CAVING』に「登高(アッセント)について」を発表して、日本にSRTを紹介した[90]。これ以降、SRTによる竪穴探検が徐々に導入され、試行錯誤が始まった[137]。

ケイビング2団体の並立

1978年には、日本ケイビング協会の硬直的で曖昧な運営体制や協会名を使用した活動の是非などの問題などにより、日本洞窟協会が分裂し、1996年に日本洞窟学会に合流して合併するに至るまで2団体が並立することになった[135][116]。

1982年から1984年にかけて、明大地底研は岩手県遠野市で10回にわたる調査を行い、新洞窟の調査や測量を行って28洞を記録し、『遠野市洞穴調査報告書』として公開した[140]。

河内風穴非観光洞部での洞窟探検

1986年に大阪教育大学ケイビングクラブにより河内風穴に新空間が発見された[141]。翌1987年には、巨大なホールと地底湖が発見される[142][143]。この発見もあり、水島明夫を実行委員長として河内風穴でケイビングフェスティバル1987が開かれることとなった[144]。日本ケイビング協会と日本洞窟協会の共催で開催することとなり、以後の両団体の合併に至るまでの契機となった[144]。そしてしばらく鈴鹿プロジェクトと称される測量プロジェクトが進行していたが、1988年に終わったことで10年以上行われなくなる[141][145]。

ケイビング団体の合併と技術革新

1996年に日本洞窟学会に日本ケイビング協会と日本洞窟協会が合流して新体制となり、2000年代初頭にかけては国際交流や技術革新などにより、ケイビングにおける大きな転換期となった[97]。1990年代に入ると正井和夫・後藤聡による Japan SRT Project が日本語によるSRT技術書の発行を行い、日本国内の洞窟探検でもSRTが定着することとなった[137]。また、1990年代後半には、発光ダイオード (LED) によるヘッドライトが普及し始め、それまでの電球に比べ明るさや電池の持ち、大きさなどにおいて優れ、洞窟活動の効率や安全性が向上した[97]。1990年代後半以降はパソコンおよびインターネットの普及などにより、各団体が発行する情報誌は徐々に数を減らしていった[97]。

1994年には立命館大学探検部により、中華人民共和国広西チワン族自治区で竪穴 400 m の燕子洞が探検された[90]。立命館大学は2000年代以降にも、中国やインドネシアへの海外遠征を行い、新洞調査を行っている[97]。

1995年に大山水鏡洞が日本大学探検部、立教大学探検部、亀戸ケイビングクラブからなる第2次沖永良部島洞窟探検隊によって再度探検され、新空間が発見される[133]。以降も複数の大学探検部を中心とした継続した調査により[133]、2007年5月までに 10,483 m を超す(当時)日本第2位の総延長を持つ洞窟であることが明らかとなった[146]。

探検部の減少から現在まで

上述のように、2000年代は探検部の減少傾向が顕著となった[97]。また、入洞禁止や強い制限がかけられた洞窟が増えた[97]。更に2020年代にはコロナ禍により、大学探検部の活動停止、技術継承の断絶などの問題が起こった[99]。洞窟死亡事故は80年代後半以降は長らく発生していなかったが、2000年代には一般人による死亡事故がたびたび発生した[97]。2008年には、複数大学探検部合同の活動で、日咩坂鐘乳穴での致命的な行方不明事故が発生している[97]。

2006年には、北海道大学探検部の長谷川航らが北海道最長の洞窟である北海洞を発見し、測量して報告した[147]。

2025年には、法政大学探検部により、ウズベキスタンでの海外洞窟調査遠征が実施された[99][148]。

探検部の存亡

岡村は探検部を、実体験の志向を持って入部した人間を、物事を客観的に冷静に見る「探検部の目」を持った人として成長させる「人を育てる装置」と表現している[93]。部員減少が顕著になった2016年現在では、そのような「人を育てる装置」は1つの大学の探検部だけでは機能しない[93]。探検技術に優れたOBや教育力のあるOBの手が回らず、学生は孤立して現役だけで小さくまとまる傾向がある[93]。そのような中で活動を続けるために他大学からの部員を受け入れる部があったり、多くの部は複数の大学が連携して活動し、少ない部員数を補いつつ、共同で技術などの訓練も行っている現状がある[93]。

立命館大学教授で同探検部OBの白戸圭一は、「授業に出席せずに探検ばかりやっている君たちのような人間が増えたら、世の中は困る。でも、探検という行為は新しい世界への挑戦だ。だから探検部が存在しにくい世の中というのは、それはそれで怖い世の中だ。大学探検部というのは、社会のリトマス試験紙みたいな存在なんだ」という当時の探検部顧問の言葉を引用し、大学探検部が存続の危機に直面する現状へ警鐘を鳴らしている[6]。

おもな団体

以下、大学探検部(およびそれに類する団体)を示す。山岳部やワンダーフォーゲル部は含まないが、洞窟探検や海洋探検を専門とするクラブ・サークルも含む。各大学の探検部は過去に、遠征や調査の成果を対外的に報告するための部誌・部報を刊行してきた。現在では刊行されていないものが多いが、各団体の活動史を伝える資料となっており[149]、これについても併せて示す。

北海道・東北

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団体名 結成日 学内の立場 備考 ホームページ等
北海道大学探検部 1961年5月31日[51] 公認学生団体
(体育系団体)[150]
部報『TERRA INCOGNITA』[151]
帯広畜産大学カヌー探検部 文化会所属サークル[152]
弘前大学探検部 1973年[153] 公認[154]
秋田大学ケイビング部 1970年以前[155] 体育系団体(非公認)[156]
東北大学アドベンチャークラブ 1969年以前[85] 廃部[157] 部報『樗』(ごんずい)[158][159]。
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関東・中部

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団体名 結成日 学内の立場 備考 ホームページ等
麻布大学探検部 1978年[160] 体育会[161] 関探連に加盟[162]
亜細亜大学探検部 1964年4月[59] 亜細亜学園学友会[163]
(学術文化連合会)[164]
活動報告書『足跡』[165]。関探連に加盟[162]
神奈川大学アドベンチャークラブ 1966年[166] 公認
(文化・学術・工学系)[167]
関探連に加盟[162]
学習院大学探検クラブ 1963年10月[168] 学習院桜友会
(文科系団体)[169]
部誌『踏破』、部報『ADVENTURE』[165]。
慶應義塾大学探検部 1969年6月[73] 公認学生団体[170]、文化団体連盟加盟[171] 関探連に加盟[162]
駒澤大学探検部 1970年[172] 公認団体[173]
上智大学探検部 1959年[44](1964年[48]) 文化・芸術・文芸系[174] 関探連に加盟[162]
拓殖大学探検部 1966年4月1日[175] 公認団体 関探連に加盟[162]
中央大学 Caving club 1978年[176] 部会活動
中央大学探検部 1972年[177] 部会活動 関探連に加盟[162]
東海大学探検会 1962年6月[53] 文化部連合会[178]
(公認サークル)[179]
部報『未知』[180]。関探連に加盟[162]
東京学芸大学冒険探検部 1981年[7] 廃部[7] 関探連に加盟[162]。
東京大学学術調査探検部 1964年[8] 廃部[21] 部報『SI EXPLORAMUS』[151]。
東京大学海洋調査探検部 1969年[61] 文化系サークル[84](非届出団体[181][182])[183]
東京都立大学学術探検会[注釈 14] 1973年以前[184] 体育会[185] 部誌『探検会』。
東京農業大学農友会探検部 1961年[44][8] 農友会 文化団体連合会[186] 部報『フロンティア』[151]。
東京農工大学探検部 1978年以前[187] 体育系[188]
東京理科大学探検部ROVERS 1967年[189] 公式1部同好会
(文化系団体)[190]
東洋大学探検部 1969年以前[191] 公認サークル[192] 関探連に加盟[162]。
日本大学探検部 1966年[67][193] 文化団体連合会[194] 関探連に加盟[162]。
一橋大学探検部 1968年6月28日[71] 廃部[195][注釈 11]
法政大学探検部 1965年9月11日[64][65] 公認サークル[196] 関探連に加盟[162]。
明治大学地底研究部 1975年12月11日[90] 公認サークル[197]
明治大学探検部 1965年4月1日[62] 廃部[62]
横浜市立大学探検部 1958年2月[44] 文化部連合会
(公認団体)[198]
部報『探検部報』、部誌『羅針盤』、
部史『エキスペディションI』[180]
立教大学探検部 1968年10月1日[74] サークル[199] 部誌『極限』[200]
立正大学探検部 1968年2月[71] スポーツ活動団体[201] 関探連に加盟[162]。
早稲田大学探検部 1959年4月15日[44] 公認サークル[202] 『探検研究会会報』、部報『創刊号』[203]。関探連に加盟[162]。
愛知学院大学探検部 文化部[204]
名城大学探検部 1968年9月14日[74] 廃部[205] 部報『行動』[165]
岐阜大学探検部 1970年以前[206] 廃部[207]
静岡大学探検部 1970年[208] 公認[208] 関探連に加盟[162]。
新潟大学探検部 1976年[91] 学友会公認[91]
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近畿

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団体名 結成日 学内の立場 備考 ホームページ等
大阪芸術大学探検部 1972年6月[209] 文化倶楽部連合[210]
大阪公立大学学術探検部[注釈 15] 1958年12月7日[44][47] 公認サークル(文化系)[212] 部報『部報』、『市大探検』[180]
大阪大学探検部 1962年11月15日[53] 体育系公認団体[213] 部報『あぷろうち』[180]
大阪教育大学洞穴探検部[注釈 16] 1965年4月[63] 廃部[214] 部報『未知』[215]
大阪府立大学海洋探険部 1968年[216] 廃部[212]
関西学院大学探検会 1964年11月[60] 登録団体[217] 部報『関学探検』[158]
関西大学探検部 1958年11月8日[44] 文化会[218] 部報『踏査』[180][219]
京都外国語大学探検サークル[注釈 17] 1973年以前[221] 廃部[222]
京都産業大学探検部 1971年[223] 文化団体連盟[224]
京都市立芸術大学探検部 1966年[69] 廃部[69]
京都大学探検部 1956年3月5日[44] 文化系サークル[225] 部報『探検』[149]
同志社大学探検部 1968年以前[151] 廃部[226]
近畿大学文化会探検部 1968年[注釈 18] 文化会[228] 機関誌『倶在野』(ぐあの)[227]
神戸大学探検部 1968年9月[74] 文化系公認団体[229] 部報『ユッティ』[165]
甲南大学探検部 1962年[54] 文化会サークル[230][231] 機関誌『探照』[54]
立命館大学探検部 1960年1月21日[44] 学術公認団体[232] 部報『探査』、機関誌『ずんがり』[158]
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中国・四国

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団体名 結成日 学内の立場 備考 ホームページ等
岡山大学ケイビングクラブ 1968年6月[122][233][注釈 19] 公認クラブ[235] 『報告書』[236]
岡山大学探検部 1969年6月[237][238] 公認クラブ[239] 部報『野生』[238]
鳥取大学探検部 1986年11月10日[92] 体育会[92]
広島修道大学探検の会 1977年以前[240] 文化局[241]
広島大学探検部 1976年以前[242] 文化サークル団体連合[243]
広島市立大学探検部 体育系クラブ[244]
山口大学洞穴研究会 1960年8月[注釈 20] 文化会[245] 『ぽのーる』『石灰洞報告書』
香川大学医学部ODSC (探検部) 1980年[246] 文化系部[247]
愛媛大学学術探検部 1961年[52] 廃部[248] 部報『探検』。
高知大学学術探検部 1969年[87] 廃部[249] 『高知大学学術探検部活動報告』
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九州

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団体名 結成日 学内の立場 備考 ホームページ等
九州大学探検部 1964年3月11日[55] 公認サークル[250] 部報『九大探検』[251]
福岡教育大学探検部 1971年以前[252] 廃部[253]
熊本大学探検部 1984年以前[254] 文化部公認団体[255]
熊本学園大学探検部[注釈 21] 1969年以前[256] 廃部[257] 部報『EXPLORATION』[256]
佐賀大学探検部 1972年 公認団体(体育協議会)[258]
長崎大学探検部 1973年[89] 体育系サークル[259]
鹿児島大学学友会探検部 1966年11月19日[67] 文化系(部活動)[260] 部報『KUEC』[203]
沖縄大学クライミングサークル 探検部 運動系サークル[261]
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人材の輩出

石毛直道

探検部は、研究者、作家、ジャーナリスト、写真家など、さまざまな分野で活動する人材を輩出してきた[262]。特に、探検部の活動では文化人類学的な知見拡大や異文化理解を根底におくことも多く[56]、多くの文化人類学者が輩出されている[34]。また作家となった出身者も多く、大野秀樹は「へたな文芸サークルよりも多くの作家を世に出している」と語っている[263]。

法政大学探検部出身の探検家・編集者である岡村隆は[264]、海外渡航が自由化された1960年代以降の探検部について、海外活動が、のちに多様な分野で社会に影響を与える人々の才能を育てる場として機能したと述べている[56]。たとえば、京都大学探検部出身の生態学者(京都大学教授)であった井上民二 は[265]、亡くなるまで常にフロンティアを目指したが、探検部時代の経験がその研究・社会活動を支える思想・行動力の原点になったとされる[266]。また、東北大学名誉教授の宗教民俗学者である鈴木岩弓は、東北大学アドベンチャークラブ出身であり、そこで研究者としての独創性を育んだことを語っている[267]。

先述の通り、京都大学探検部を創設した本多勝一は、のちに朝日新聞ジャーナリストとして活躍する[57][263]。本多はそこで探検論や冒険論を発表し、後の探検部員に影響を与えた[57]。同じく京都大学探検部を創設し、初代プレジデントであった高谷好一は、生態学者(京都大学名誉教授)として知られる[268]。また、京都大学探検部は様々な研究者を輩出しており、文化人類学者の石毛直道(国立民族学博物館館長)[56][269][270]、山本紀夫(民族学者、国立民族学博物館名誉教授)[57]、安成哲三(気象学者、名古屋大学名誉教授)[57][271]、瀬戸口烈司(古生物学者、京都大学名誉教授)[272]などが挙げられる。

1960年代前後に活動した人物として、東京農業大学探検研究会を創設し[273][274]、砂漠緑化に取り組んだ向後元彦が知られる[56]。また、出版活動に携わった礒貝浩・松島駿二郎(ともに上智大学出身)、小説家の西木正明・船戸与一(ともに早稲田大学出身)が挙げられる[263][262]。北海道大学探検部出身の英文学者である川成洋(法政大学名誉教授)[275]や、動物学者の新妻昭夫(恵泉女学園大学教授)も作家として知られる[263]。表現者やジャーナリストでは、福本繁樹(染色家、京都市立芸術大学出身)、鄭仁和(作家、上智大学出身)、森田靖郎(作家、関西学院大学出身)、惠谷治(ジャーナリスト、早稲田大学出身)、星野道夫(動物写真家、慶應義塾大学出身)、関野吉晴(文化人類学者、一橋大学探検部を創設[276])らが挙げられている[262][263]。岡村は、これらの人物について、大学の枠を越えた先輩・同輩の活動から刺激を受け、組織よりも個人の立場から活動を展開した「個人の時代」を象徴する存在であったと位置づけている[57]。

1970年代から1980年代に活動した世代からは、写真家の長倉洋海(同志社大学出身)・船尾修(筑波大学自然探検部出身)、ジャーナリストの吉田敏浩(明治大学出身)、ノンフィクション作家の髙山文彦(法政大学出身)・高野秀行(早稲田大学出身)らが現れた[58][263]。岡村は、これらの人物が探検部で仲間との議論や活動を通じて思考と行動の訓練を受け、他大学の部員やOBとの交流を重ねることによって、それぞれの活動世界を形成したと論じている[58]。その後の世代では、ノンフィクション作家・探検家として活躍する角幡唯介(早稲田大学)が、衰退期にも現れた先鋭的な個人の例として挙げられている[93]。

脚注

参考文献

関連項目

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