文子とはつ
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明治38年(1905年)、井川一家は東京を離れ故郷の木曽へ向かっていた。文子は10年ぶりのはつとの再会に胸をはずませていた。乳母せきの乳で文子とはつは姉妹のように育った。井川本陣は代々続く木曽の旧家。伝右衛門は東京で民友新聞を発行し早期和平を説いていた。日露戦争に湧く世相や軍部からの圧力に嫌気がさし、文子の卒業を機に社主を退き帰郷することにしたのだ。諏訪まで来た一行にニュースが飛び込んできた。先日まで伝右衛門が社主を務めていた民友新聞社が焼き打ちされたのだ。日露戦争の終結とロシアの賠償が樺太(サハリン)半分だったことに不満を持った過激派の仕業だった。首謀者の海軍大尉、平間勝之は和平派の民友新聞を狙ったのだ。文子は平間の名前に憶えがあった。文子の学校に平間が講演で訪れたことがあり、そのりりしい姿にときめいたのだ。諏訪から峠を越え木曽へと向かう一行、はつは待ちきれずに街道まで迎えに出た。しかし美しく成長した文子に気遅れするのだった。叔母のうめは留守中、井川本陣を守っていた。小学校では日露戦争の講演で平間大尉が訪れることになり、村はその話で持ちきりだった。日露戦争に湧く世間は平間大尉をまるで英雄のように考えていたが彼は事件後、謹慎を命じられていた。警察は平間大尉に目を光らせ井川本陣を狙うかも知れないと忠告するが伝右衛門は笑い飛ばした。平間大尉一行は歓迎のなか村に到着し宿舎の寺に落ち着いた。平間大尉は井川家に招待され、井川家の女中となったはつは平間の姿に胸がときめいた。平間は野心家だったがもはや海軍での出世は望めない。晩さんの後、平間は「文子を愛している」と告げる。その言葉を聞いたはつは平間にある手紙を送った。二十三夜の夜、はつは呼び出した平間と会い、文子を樺太に連れていかないよう頼んだ。酒に酔った平間ははつを手にかける。事業で成り上がろうと考える平間は資産家に取り入ろうと文子と結婚した。はつは平間の子を身ごもった。これまでのいきさつを知った文子は半狂乱になるが、文子もまた妊娠していた。はつはお腹の子もすべて引き受けるという深山勘七と一緒になった。平間は東京の事業家、田島から協力を得ようとするが、その妻美津江に接近する。やがてこの関係は田島の知るところになり、二人は田島の銃弾を浴びて息絶えた。悲しい事件から8年、文子は息子の一だけが生きがいだった。しかし一はわがまま放題に育ち文子や伝右衛門の言葉に耳をかそうとしない。刑を終え出所してきた田島は何もかも無くしたが、伝右衛門はその田島に会社を任せた。 昭和6年(1931年)、勘当されていた一は女給の宮子を伴って帰ってきたが、文子を女中同然に扱うのだった。秋になりはつの息子市太郎の婚礼が行われることになった。一と宮子は屋敷山林を売り払い姿を消した。本陣屋敷を去る日、文子は額にピストルを向けた。そこに市太郎の婚礼を終えたはつが飛び込んできた。ピストルをもぎ取ると 「もうどこにも行かね」と二人は抱き合った。木曽を舞台に二人の女性の苦難に満ちた人生を描く―。