斗南藩
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| 斗南藩 | |
|---|---|
| 立藩年 | 明治2年(1869年) |
| 初代藩主 | 松平容大 |
| 廃藩年 | 明治4年(1871年) |
| 最終藩主 | 松平容大 |
| 国 | 陸奥国 |
| 居城 | 旧五戸代官所→斗南陣屋(円通寺)[1] |
会津松平家 | |
| 石高 | 3万石 |
| 種類 | (親藩) |
| 江戸城控間 | - |
斗南藩(となみはん)は、陸奥国に1869年(明治2年)から1871年(明治4年)まで存在した藩。松平容大1代限りの藩である。藩庁は旧盛岡藩五戸代官所、のち田名部の円通寺(現青森県むつ市)に置いた。石高は3万石である。
斗南藩の歴史は、明治2年(1869年)に旧会津藩主松平容保の子で生後間もない慶三郎(松平容大)に家名の再興を許されたことに始まる。戊辰戦争(会津戦争)で、会津藩は降伏し会津藩主容保と松平喜徳は謹慎処分、会津藩はお取り潰しとなっていた。会津藩23万石から下北半島のわずか3万石(明治4年の税収は米7310石余、金1万4503円余、銭1万2489貫余)への移住は困難を窮めた。不毛な土地での惨状から脱出しようと、藩政改革をなそうとするも、立藩からわずか1年半後の明治4年(1871年)に廃藩置県を迎え、斗南藩は廃藩となった。藩領は斗南県に、ついで弘前県(のち改称して青森県)へと編入された。
戊辰戦争と戦後処理

明治元年9月22日(1868年11月6日)、若松城に籠城していた会津藩兵らは降伏・開城し、前会津藩主松平容保と藩主(容保の養子)松平喜徳は謹慎となった[2]。降伏した会津藩士は、塩川(のち高田藩)と猪苗代(のち東京)に送還された[3][4]。その家族らは若松近郊の農村に分散して避難した[5]。
奥羽越列藩同盟に加入し新政府軍に抵抗した諸藩には処分が下された[6]。そのうち、盛岡藩では戊辰戦争以前の20万石から、白石藩13万石へ減封処分を受けるも、盛岡藩領の領民の一揆が発生したことや[注釈 1]、新政府に献金を行ったことで、旧領のうち北郡・二戸郡・三戸郡などを没収の上で、13万石を統治することとなった[6][7]。この旧盛岡藩領は黒羽藩支配となったのち、九戸県(のち三戸県)に吸収されている[8]。
一方で、木戸孝允や兵部大輔の大村益次郎により、旧会津藩民1万7000人のうち1万2000人を蝦夷地に移住させ、9万石分の領地を与えることが決まっていた[注釈 2][9][10]。その第一陣として、明治2年(1869年)9月に旧会津藩の民数百人が小樽へと移送された[9]。しかし、蝦夷地開拓を担っていた兵部省と開拓使の間でたらいまわしにされたあと、明治3年3月に北海道開拓の所管が開拓使に移動したことで、黒田清隆により余市への入植に当たることとなった[10][11]。
会津藩再興
旧会津藩で家老・軍事総督をつとめた山川浩、公用人をつとめた広沢安任、永岡久茂らを中心に、会津藩再興の活動がなされた[12]。大久保利通や木戸孝允の配下との交渉により、旧会津藩の事務所の開設の許諾を得ることに成功している[13]。またこの当時、新政府と旧会津藩の間をとりもったのは、保科家が藩主を務める飯野藩であった[14]。
明治2年9月28日に[15]、太政官より保科家を通じて会津松平家再興の通達が送られた[16][17][18]。この少し前、6月3日(1869年7月11日)に松平容保の子・慶三郎(松平容大)が生まれているため、慶三郎を相続する跡継ぎとして届け出た[16]。領地としては猪苗代もしくは北郡(旧盛岡藩領の一部)の3万石を提示されていた[19]。遡ること文久2年(1862年)のロシアとの国境交渉の際に、広沢安任も同行し、道中で下北半島を実際に見聞しており、広大なその地の開拓の可能性を感じていた[20]。旧領である猪苗代に固執する家臣も多く反論が多かったが、最終的には陸奥国北郡を選択している[18][21]。
同年11月4日(12月6日)に、旧盛岡藩領のうち北郡・二戸郡・三戸郡(表高)3万石の支配が命じられた[16][17][22][15]。なおこの際に、慶三郎は容大と改名している[22]。明治3年1月には、重臣を除いて旧会津藩家臣約4700人の謹慎も解かれている[16][21]。同月に、蝦夷地のうち、太櫓郡・瀬棚郡・歌棄郡・山越郡の支配も命じられている[21]。明治3年5月15日に、容大は正式に知藩事に任命され、同19日に原田種龍と山川浩が斗南藩権大参事に任命された[注釈 3][16]。
斗南への移住

斗南藩の実権を握る原田種龍と山川浩は、斗南への移住をめぐって意見が対立した[16]。会津戦争以降、会津にとどまって戦後処理に当たっていた原田種龍は、表高わずか3万石の斗南に旧会津藩の民をすべて移すことは不可能であり、その一部を若松の周辺の開拓に当たらせることを主張した[注釈 4][23]。一方で、山川浩は山国である旧領会津への復帰を望まず、海に面する斗南への創移住を主張した[23]。松平容保の裁定もあり藩論は後者に落ち着き、原田はまもなく権大参事を罷免され、以降は山川が藩政を指揮することとなった[23]。
斗南への移住は遡ること明治3年4月より始まった[23]。資料により具体的な値は異なるが、旧会津藩には約2万1085人が属しており、多くは斗南へ移住したものの、残りの者は平民に身分を落としたり、出稼ぎとして会津やその隣県にとどまったり、東京へ移住したという[24][23]。移住には、陸路もしくは新潟や江戸を経由する海路が取られた[25]。斗南藩が明治政府に申請した移住にまつわる諸経費(3年間にわたる生活費・開拓費用・住宅建設費)は、約67万両に及んだが、実際に支給されたのは17万両に過ぎなかった[26]。藩論の不統一や資金繰りが枷となり、斗南移住がひと段落ついたのは閏10月になってのことであった[23]。また、当時1歳の藩主容大は、9月22日に仮の藩庁・旧五戸代官所に到着している[27]。
斗南藩政

「斗南」藩という名称は明治3年4月に定まった[16]。「斗南」の由来は諸説あるが、漢詩の「北斗以南皆帝州」からとったという説が一般的である[28][18]。(どれほど北端の地であろうと)北斗七星より南は同じ(朝敵とみなされていても)天子の土地であるという意味である[28][18]。
当初、斗南藩の藩庁は旧盛岡藩五戸代官所におかれた[28]。明治4年2月には、盛岡藩時代より港として栄えていた北郡安渡村や大平村(両現青森県むつ市)を「奥羽の長崎」・中国貿易の拠点に変貌させようと企図し、藩庁と藩校日新館をこれに近い田名部の円通寺に移した[29][30]。
当時の斗南藩領は概して不毛の土地であった[31]。斗南藩の幹部には、権大参事の山川浩と小参事の広沢安任・永岡久茂がついていた[32]。農民と武士の亀裂を埋めるために(会津藩では松平容保の京都守護職などの負担を農民に強いられていた)、領内では廃刀令が発布された[33]。田名部の付近の地を斗南ヶ丘と改名し、複数の住宅を建設し、領内の複数箇所に救貧所が設立して、移住者を保護・自立の支援をした[18][34]。
廃藩とその後
藩政が始動し始めた明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県が断行され、松平容大は知藩事を免職、斗南藩は廃藩となった[35][29]。旧斗南藩領は、斗南県となったのち、弘前県に合併後、青森県に改称された[36][29]。
斗南藩の人間およそ1万4000人の行く先はさまざまであった[注釈 5][29][37]。故郷会津若松に戻る者もいれば、東京や北海道など全国に渡った者、斗南に残って青森県の基盤を形作った者などがいた[29][30]。
