志免鉱業所
かつて日本の福岡県志免町にあった炭鉱
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志免鉱業所(しめこうぎょうしょ)は、福岡県糟屋郡志免町にあった炭鉱である。糟屋炭田(かすやたんでん)の炭鉱の一つ。志免炭鉱とも呼ばれる。採掘開始から閉山にいたるまで終始国営であった日本国内唯一の炭鉱として知られる。1964年(昭和39年)閉山。志免鉱業所竪坑櫓、斜坑口などの遺構が現在も残されている。
| 志免鉱業所 | |
|---|---|
志免鉱業所の遺構。手前が斜坑口、奥が竪坑櫓。 | |
| 所在地 | |
| 所在地 | 福岡県糟屋郡志免町 |
| 国 | |
| 座標 | 北緯33.5905度 東経130.48644度 |
| 生産 | |
| 産出物 | 石炭 |
| 歴史 | |
| 閉山 | 1964 |
| 所有者 | |
| 企業 | 日本政府 |
| プロジェクト:地球科学/Portal:地球科学 | |
2009年(平成21年)12月8日、竪坑櫓が国の重要文化財に指定された。斜坑ロ等は県指定史跡に指定された。産業考古学会の推薦産業遺産の認定がなされると、国の登録有形文化財に登録され、後に国の重要文化財に指定された。経済産業省の近代化産業遺産については、竪坑櫓だけではなく、斜坑口や二股排気風洞で使われていた水上飛行機(飛行艇)のプロペラーを使った廃風機など、全ての残存施設が認定されている。
歴史
明治・大正期:海軍新原採炭所から志免への移行
志免鉱業所の歴史は、1889年(明治22年)に糟屋郡新原村(現・須恵町)に設立された「海軍新原予備炭山(のちの新原採炭所)」に端を発する。当時の海軍艦艇の主力燃料であった石炭(無煙炭)を自給・確保するため、海軍燃料廠の管轄下で直接開発が進められた。
1888年(明治21年)の予備炭山指定に続き、翌1889年には新原に第1立坑(深さ30m)と第2立坑(深さ50m)が開坑。さらに第3坑(斜坑)が桜原(現・宇美町)に、第4坑(斜坑)が再び新原に設けられた。 現在、JR新原駅近くに整備されている「新原公園」は、かつての初期本部庁舎および第4坑斜坑口の跡地であり、海軍炭鉱創業記念碑や技術者の胸像などが移設・保存されている。また、海軍時代の表札、制服、鉱具、図面、および国鉄移管後の炭層表示付き立体地形図などの一次史料は、すべて実物が「須恵町歴史民俗資料館(皿山公園内)」に一括して保存・公開されている。
1906年(明治39年)に第5坑が開坑したことで、開発の舞台は志免村(現・志免町)へと移る。その後も旅石(現・須恵町)に第6坑、志免町内に第5坑補助坑(のちに二重坑と改称)、第7坑、第8坑(スキップ斜坑)、そして志免立坑が次々と新設された。また、粕屋町仲原や酒殿には排気・換気専用の坑口および立坑が設けられた。 昭和初期までに新原地区の初期坑口(第1〜第3坑)が採掘を終えて閉鎖されると、採炭の中心は完全に志免地区へと移行。これにともない、1929年(昭和4年)には鉱業所事務所(庁舎)も新原から志免へと移転した。
昭和期(戦後):日本国有鉄道への移管と「志免闘争」
第二次世界大戦終結後の1945年、事業は海軍から運輸省(のちの日本国有鉄道)へと移管され、正式名称も「志免鉱業所」へと改称された。 国鉄直営となった志免鉱業所では、既存の第5坑、第6坑、第7坑、二重坑(以上が上層炭)、第8坑(下層炭)に加え、完成したばかりの志免立坑も操業を開始。効率化のため第7坑と二重坑が第5坑へ統合されるなどの再編が行われた。
一方、一旦閉塞されていた新原地区の第3坑・第4坑は、中堅粗鉱業者の新栄鉱業株式会社が「新栄新原炭鉱」として再開し、採掘した石炭を国鉄へ全量納入する条件で操業を続けた。また、閉山後に酒殿地区の排気坑・立坑敷地は、国の研究・訓練施設である「九州鉱山保安センター」へと転用され、全国の鉱山職員の研修や学校見学を受け入れる拠点となった。
しかし、1950年代後半以降、安価な輸入炭の急増と、国鉄路線の電化・ディーゼル化(動力近代化計画)によるエネルギー革命が直撃し、経営は巨額の赤字へと転落。生産効率が国のスクラップ基準に該当したことから、国鉄は鉱業所の払い下げ(売却・民営化)を決定し、調査委員会を結成した。
この合理化案に対し、国鉄労働組合(国労)志免支部は激しく反発し、歴史的な「志免闘争」へと発展した。1959年(昭和34年)6月には、地質調査を試みた国鉄調査団の実力阻止をめぐり、組合側と警官隊が激突。双方が数十人の負傷者を出す流血の事態となった。 さらに組合内部では、売却交渉を容認する「条件闘争派」へ方針転換した組合員に対し、国労の本部(主流派)が激しい糾弾や集団リンチ、他地域へ転勤した組合員の強制連行(拉致・監禁)を行うなど、運動は過激化・泥沼化の一途をたどった。
閉山から文化財保存への軌跡
激しい闘争の末、志免鉱業所は1964年(昭和39年)に閉山を迎えた。閉山後、旧海軍直轄という経緯から、旧通商産業省傘下の特殊法人「石炭鉱業合理化事業団」が研修施設建設の名目で国鉄から敷地の無償譲渡を受けた。しかし、結果的に粕屋町の酒殿地区に一部施設が設置されたのみで、志免町内の主要な炭鉱設備や広大な敷地は長年放置されることとなった。
1990年代に入ると、志免町内から安全面や開発の観点から遺構の解体撤去を求める声が上がり、解体業者らの要請を受ける形で、町は1999年(平成11年)3月に『志免立坑櫓等解体調査委託業務報告書』を発行。住民へも簡易版が配布され、解体への現実味を帯びていった。
しかし、一部の扇風機坑口などが実際に解体され始めると、建築史・産業史の専門学会からその希少性を評価する声が続出。現地での学会開催を契機に、これまで静観していた地域住民の間からも保存を求める「志免立坑櫓を生かす住民の会」などが立ち上がった。 この保存運動と学術的評価の波は行政を動かし、志免立坑櫓は国の登録有形文化財、福岡県指定史跡を経て、最終的に文部科学省から「国指定重要文化財」に指定され、日本の近代化を伝える世紀の産業遺産として永久保存されることが決定した。
年表
海軍時代
- 1888年(明治21年) 1月 新原(しんばる,現・須恵町)が海軍により予備炭山に指定される.
- 1889年(明治22年) 1月 海軍より海軍技師を現地に派遣.
- 7月 新原採炭所第一坑開坑 (竪坑.深さ約30m.櫓は木造.現・須恵町新原).
- 地元では「新原炭鉱,海軍炭鉱」と呼ばれるようになる.海軍時代は志免に移転後も,新原炭鉱と呼ばれていた.
- 10月 新原採炭所第二坑開坑 (竪坑.深さ約50m.櫓は木造.現・須恵町新原).
- 12月 新原(第一坑)に事務所開設.
- 1890年(明治23年) 3月 新原採炭所官制発布 新原採炭所設立,佐世保鎮守府所管となる.
- 1893年(明治26年) 1月 第三坑開坑 (斜坑.現・宇美町桜原).
- 1900年(明治33年) 6月 第一坑,第二坑廃坑.
- 8月 海軍採炭所官制発布,海軍採炭所に改称,海軍艦政本部に所属.
- 1901年(明治34年) 9月5日 - 海軍採炭所が糟屋郡桜原へ移転[1]。
- 11月 第四坑開坑(斜坑.現・須恵町新原).
- 1904年(明治37年) 1月 博多湾鉄道 西戸崎〜須恵間開通(現・JR九州香椎線).
- 1905年(明治38年) 6月 博多湾鉄道 須恵〜新原間開通(同上).
- 11月 第三坑の作業を第四坑に合併.
- 1906年(明治39年) 9月 第五坑開坑,(斜坑)志免村(現・志免町)での採炭を開始.
- 1909年(明治42年) 7月 博多湾鉄道 酒殿〜志免間開通(後の旧国鉄香椎線旅石支線.1985年廃止)志免駅開業.現在コンクリート工場や町道などに利用の位置.此方を保存する事が望ましかった.
- 1911年(明治44年)11月 第六坑開坑(斜坑.現・須恵町旅石).
- 1912年(明治45年) 4月 海軍煉炭製造所条例改正に伴い,大嶺炭田の海軍練炭製造所採炭部が管轄下に入る.
- 1906年(大正 4年) 3月 博多湾鉄道 志免〜旅石間開通(後の旧国鉄香椎線旅石支線.1960年廃止).
- 1919年(大正 7年) 4月 第七坑開坑(斜坑.現・志免町)(第5坑構内).
- 1920年(大正 8年) 3月 筑前参宮鉄道 吉塚〜筑前勝田間開通(後の国鉄勝田線,1985年廃止)新志免駅開業(現在の志免鉄道公園の範囲で旅客ホームなど.戦時統合で西鉄になった時に志免駅として統合.)
- 1921年(大正10年) 4月 管轄組織名称が「海軍燃料廠 採炭部」に改称.呉鎮守府所管となる.
- 1923年(大正12年) 3月 大嶺炭鉱の管轄を大蔵省に移管.
- 1929年(昭和 4年)10月 志免新庁舎落成.事務所を志免に移転.
- 1931年(昭和 6年)10月 第三坑採掘終了.
- 1935年(昭和10年) 5月 第八坑開坑(斜坑.現・志免町)(第五坑構内)竪坑櫓(ドラム式の三井田川炭鉱の伊田竪坑の竪坑櫓に似ている反転式スキップの櫓を擁し,国内では嘉穂町(現,飯塚市)の住友忠隈鉱業所(忠隈炭鉱)で使われていた事が判明している珍しい斜坑であった.
- 1937年(昭和12年) 8月 第七坑坑内出水.
- 1938年(昭和13年) 3月 第七坑下層採炭作業を休止.
- 1941年(昭和16年) 4月 管轄組織名称が第四海軍燃料廠に変更.
- 4月 酒殿坑開坑(斜坑.現・粕屋町)
- 7月 立坑開坑(竪坑.現・志免町)
- 同年 竪坑櫓着工.
- 1943年(昭和18年) 竪坑櫓完成.竪坑(地下部)本体掘削開始.
- 1945年(昭和20年) 9月 第七坑坑内水害被災.竪坑(地下部)本体完成(鉄筋コンクリート捲き,深さ430m.地下水平坑道は壺下から15m上に設置.普通の竪坑は底部である壺下を,半球形状にコンクリートで建設するが,この海軍炭鉱の志免竪坑は,壺下の設計図が側壁のみがコンクリート建築の指示をされ,壺下の底部は土などの儘のように描かれていて,更に地下深く竪坑を伸ばせるように造られていた.
国鉄時代
- 1945年(昭和20年) 12月 第四海軍燃料廠の管轄が運輸省へと移管,「運輸省門司鉄道局志免鉱業所」となる.
- 通称で志免炭鉱と云われるようになる.
- 1946年(昭和21年) 5月 第八坑坑内火災発生.
- 6月 志免庁舎火災により消失.
- 12月 運輸省直轄となる.運輸省志免鉱業所へと改称.
- 1949年(昭和24年) 3月 第七坑水害復旧.
- 5月 新庁舎落成.
- 6月 「日本国有鉄道志免鉱業所」に名称を変更.
- 1951年(昭和26年)12月 第四坑廃止.
- 1953年(昭和28年) 5月 第六坑を第五坑へ統合.
- 1954年(昭和29年)11月 臨時公共企業体合理化審議会が鉱業所の売却を公式意見として答申.
- 1955年(昭和30年)11月 行政管理庁 第一回勧告(附帯事業の国鉄経営本体からの切り離し).
- 1956年(昭和31年) 1月 国鉄経営調査会答申(黒字化要求、本体からの切り離し,売却,合理化の選択を求める).
- 1958年(昭和33年) 4月 行政管理庁,第二回勧告(国鉄本体以外の資産の切り離しを勧告).
- 4月 志免鉱業所調査委員会(通称 青山委員会)発足および第一回の答申(国鉄からの切り離し).
- 7月21日 志免鉱業所調査委員会第二回答申(昭和33年内の切り離し 三井、三菱、住友への事業譲渡).
- 1959年(昭和34年) 1月 運輸大臣,国鉄経営分離認可.
- 6月6日 志免闘争最大の暴動が起きる,急遽,志免炭鉱臨時調査団が構成され現地へと派遣.
- ▪阿世賀輝雄国鉄労働組合志免支部委員長を筆頭に、当時の国鉄総裁と志免鉱業所調査委員会員の立ち入りを,座り込み等で阻み,当時の国鉄総裁と志免鉱業所調査委員会の委員たちが国労の座り込みによって現地に入れず,これによって小競り合いとなり県警機動隊が出動,国労側負傷者 重傷1名,軽傷49名,警官側負傷者 重傷2名,軽傷80名,双方合わせ計132名が負傷.
- 8月 志免炭鉱臨時調査団の調査結果が公表される.
- 9月25日 払い下げの入札参加申請をしていた三井・三菱・住友の各社が参加を辞退.
- 1964年(昭和39年) 6月30日 閉山.
- 7月1日 本部事務の業務を志免炭鉱整理事務所へ名称変更.竪坑,竪坑櫓,斜坑,スキップ櫓などの施設は,通商産業省の特殊法人である石炭合理化事業団(後に組織の名称が略称をNEDOとする、通産省の特殊法人新エネルギー総合開発機構に改組され、後に省庁改編で経済産業省の特殊法人から独立行政法人と改組され、更に国立研究開発法人に改組された新エネルギー・産業技術総合開発機構となっている)に移管された.
歴代所長
- 新原採炭所
・宮地忠久大機関士(初代所長):1896年1月17日 - 1899年11月8日
- (心得)藤沼牣 大機関士:1899年11月5日 - 1900年9月29日
- 海軍採炭所
- 山田猶之助 少佐:1900年9月16日 - 1903年8月31日
- 稲葉宗太郎 少佐:1903年8月26日 - 1905年4月8日
- 鈴木富三 機関大佐:1905年4月8日 - 1910年6月7日
- 室田魁 主計中監:1910年6月6日 - 1912年6月3日
- 山崎位 主計中監:1912年6月3日 -1915年3月5日
- 徳永晃主計中監:1915年2月27日 - 1918年11月19日
- 秋葉鉱太郎主計大監:1918年11月21日 - 1919年12月17日
- 宇土兵蔵主計大佐:1919年12月13日 - 1921年3月27日
- 海軍燃料廠採炭部
- 宇土兵蔵主計少将(初代部長):1921年3月28日 - 1921年12月17日
- 斎藤芳太郎主計少将:1921年12月15日 - 1922年11月15日
- 橋爪修蔵主計大佐:1922年11月15日 - 1923年12月3日
- 服部正之主計大佐:1923年12月4日‐1924年12月13日
- 棚町五十吉主計大佐:1924年12月10日 - 1925年11月27日
- 淡輪敏雄主計大佐:1925年11月26日 - 1927年4月21日
- 長田正義主計大佐:1927年4月21日 - 1929年12月21日
- 元松直人主計大佐:1929年12月9日 - 1932年12月12日
- 大束建夫主計大佐:1932年12月10日 - 1935年10月18日
- 金谷隆一主計大佐:1935年10月18日 - 1937年12月18日
- 加納金三郎主計大佐:1937年12月18日 - 1938年11月21日
- 片岡覺太郎主計少将:1938年11月21日 - ?
- 第四海軍燃料廠
- 上田儀右衛門機関大佐(初代第四海軍燃料廠長)
- 倉富朋五郎大佐
- 猪俣昇技術大佐→技術少将
- 運輸省門司鉄道局志免鉱業所
- 猪俣昇(嘱託,初代所長):1945年12月 - 1946年12月
- 運輸省志免鉱業所
- 高井軍一:1946年12月 ‐ 1949年7月
- 日本国有鉄道志免鉱業所
- 竹内谷雄:1949年8月 ‐ 1951年8月
- 有川董勤:1951年8月 ‐ 1953年11月
- 平出彬:1953年11月 ‐ 1955年10月
- 久留義恭:1955年10月 ‐ ?
現在
新原地区の現状(新原公園)
先行して閉山した新原地区(須恵町)の旧本部庁舎および第4坑跡地は、現在は「新原公園」として整備されている。園内には、海軍炭鉱創業記念碑、海軍炭鉱創業記念史碑、移築された第3坑坑口の石組、第2竪坑の記念碑、鉱山神社の祠(山の神)、そして海軍功労者・萩尾善次郎技師の胸像などが集約・公開されている。その他の貴重な史料一式(海軍時代の表札や国鉄時代の炭層表示付き立体地形図など)は、「須恵町歴史民俗資料館(皿山公園内)」に展示・保存されている。
志免地区:解体計画から保存への転換
最後まで採掘が行われた志免地区の広大な敷地は、閉山後、石炭鉱業合理化事業団(のちのNEDO)によって長年放置されていた。1990年代に入ると老朽化への懸念などから、志免町は解体業者(東亜建設技術株式会社)に調査を委託。1999年(平成11年)3月に提出された『志免立坑櫓等解体調査委託業務報告書』は、以下のような極めて厳しい結論を下した。
- 現状評価: 目視による下層階の老朽化が激しく、初期の耐荷性や耐震性はない。施工不良(鉄筋の被り不足等)によるコンクリートの中性化や鉄筋の腐食が進行しており、早急な解体が必要。
- 費用比較: 解体費用が3億4,000万円であるのに対し、保存・補強費用は3億6,000万円。さらに年々の維持管理費用が嵩むため、原形保存は極めて困難。
- 結論: ⑴公共施設としての使用は不可、⑵観光資源としての利用は費用対効果が低い、⑶歴史遺産・文化財としての評価はない、⑷経済的投資効果はない。
この簡易版報告書が住民に配布されると、状況は一変する。地元・九州産業考古学会をはじめ、日本建築学会、土木学会、日本産業技術史学会など国内の主要学会から一斉に保存要望書が提出された。 志免町(旧動力職場跡地に建設された福祉施設「シーメイト」など)でシンポジウムや学会が相次いで開催されたほか、2003年には北海道赤平市での「第6回国際鉱山ヒストリー会議」の終了後、国際産業遺産保存委員会(TICCIH)のロジャー・バート会長(イギリス・エクセター大学教授)ら海外の権威ある学者陣が現地を視察。海軍の手による志免立坑櫓や第8坑斜坑口、硬山(ボタ山)などの残存施設を「世界的な遺産」と絶賛した。 これに呼応して地元の住民運動(「志免立坑櫓を護る住民の会」など)も本格化し、解体の方針は「保存」へと大きく舵を切ることとなった。
その後、志免鉱業所跡地は学術的・文化的な価値が公的に認められ、国の補助金等による本格的な修繕と整備が進められた。
- 敷地西側(保存エリア): 志免立坑櫓や第8坑の斜坑口(本卸・連卸)が残るエリア。現在は歴史公園として整地・整備され、解説板が設置されている。夜間には定期的なライトアップが実施され、地域のシンボルとなっている。
- 敷地東側(開発エリア): 旧動力職場(石炭火力発電所)や、水上飛行機のプロペラを転用した排風機を備えていた旧扇風機坑口・機械棟があったエリア。埋蔵文化財調査を経て解体され、現在はバス通り、志免町総合福祉施設「シーメイト」、児童公園、スポーツグラウンドとして活用されている。
1999年の報告書では「価値なし」とされた遺構群だが、その後の評価は以下のように最高峰の扱いとなっている。
- 志免立坑櫓: 土木学会A選奨、産業考古学会推薦産業遺産、経済産業省「近代化産業遺産」に認定。文化庁の登録有形文化財を経て、文部科学省から「国指定重要文化財」に指定。
- 斜坑口等(第8坑連卸・本卸坑口): 福岡県指定史跡に指定。
- 坑道排風機(水上機プロペラ転用): 発掘された実物が国の重要文化財に指定され、「志免町産業遺産収蔵庫」に厳重に収納・展示されている。
かつての報告書の「観光資源としての価値はない」という予測に反し、現在は数多くの書籍やSNS、大手旅行サイト(じゃらん等)の口コミを通じて全国から多くの観光客が訪れる産業観光地となっている。 また、「耐震性がなく早急に解体すべき」とされた構造についても、2005年(平成17年)に活断層である警固断層を震源とする「福岡県西方沖地震」が発生した際、周辺地域が激しい揺れに見舞われるなか、立坑櫓はビクともせず、海軍工廠の設計・施工による圧倒的な堅牢性を自ら証明してみせた。

