須恵町

福岡県糟屋郡の町 From Wikipedia, the free encyclopedia

須恵町(すえまち)は福岡県糟屋郡福岡市の東に位置し、福岡都市圏の一部である。

日本の旗 日本
都道府県 福岡県
概要 すえまち 須恵町, 国 ...
すえまち ウィキデータを編集
須恵町
皿山公園のあじさい園
須恵町旗 須恵町章
須恵町旗 須恵町章
1973年3月1日制定
日本の旗 日本
地方 九州地方
都道府県 福岡県
糟屋郡
市町村コード 40344-0
法人番号 6000020403440 ウィキデータを編集
面積 16.31km2
総人口 29,484[編集]
推計人口、2026年7月1日)
人口密度 1,808人/km2
隣接自治体 飯塚市糟屋郡粕屋町篠栗町志免町宇美町
町の木 ヤマモモ
町の花 ツツジ
町の鳥 ウグイス
須恵町役場
町長 平松秀一
所在地 811-2193
福岡県糟屋郡須恵町大字須恵771番地
北緯33度35分14秒 東経130度30分26秒
役場庁舎位置

外部リンク 公式ウェブサイト

須恵町位置図

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村

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町東部、上須恵地区の丘陵地より西側を望む。はるか遠方に志免鉱業所竪坑櫓ボタ山が見える。

正式表記は「須町」だが、住民基本台帳や戸籍では「須町」の字を使用する。

地理

福岡県の中央部よりやや北西寄り、福岡市の東約10kmの場所に位置する。町西部には粕屋町志免町にまたがるボタ山が残っている。

町の中央部を須恵川が東西に流れており、その源流には須恵ダムがある。町東部は山地で、飯塚市との間に通じる道路は「ショウケ越」と呼ばれる険しい峠道である。中心部は町の南西部。

近年では、町北西部から南西部にかけて、福岡市のベッドタウンとしての開発が進んでおり、住宅数が急増してきている。

隣接している市町村

歴史

須恵の町名は、古墳時代須恵器が当地で生産されていたことに由来するといわれている。江戸時代1764年には福岡藩の御用窯が設置されたが、明治時代に廃された。明治から昭和にかけては炭坑村として有名だった[1]

町村制施行以来、一度も市町村合併を経験していない。

  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、糟屋郡植木村、上須恵村、佐谷村、新原村、須恵村及び旅石村の区域をもって、糟屋郡須恵村が発足する。
  • 1953年(昭和28年)4月1日 - 町制施行して、糟屋郡須恵町となる。
  • 1954年(昭和29年)2月2日 - 町内の新栄鉱業所の坑内で爆発事故があり、15人が死亡する[2]
  • 1973年(昭和48年)7月31日 - 前日夜から宝満三郡山系地域で発生した集中豪雨により被災。

行政

町長

  • 平松秀一(3期目)
  • 任期:2030年4月30日

歴代村長・町長

村長・町長は以下の通りである[3]

  • 田原精一 1889年(明治22年) - 1894年(明治27年)
  • 吉松勝平 1894年(明治27年) - 1899年(明治32年)
  • 百田徳右衛門 1899年(明治32年) - 1901年(明治34年)
  • 安河内徳作 1901年(明治34年) - 1903年(明治36年)
  • 吉松魁三 1903年(明治36年) - 1910年(明治43年)
  • 田原貞次郎 1910年(明治43年) - 1922年(大正11年)
  • 中牟田義兵 1922年(大正11年) - 1924年(大正13年)
  • 印藤伊之吉 1924年(大正13年) - 1928年(昭和3年)
  • 田原篤 1928年(昭和3年) - 1945年(昭和20年)
  • 稲永卯十郎 1945年(昭和20年) - 1947年(昭和22年)
  • 今泉與七 1947年(昭和22年) - 1951年(昭和26年)
  • 稲永卯十郎 1951年(昭和26年) - 1959年(昭和34年)
  • 原田昇 1959年(昭和34年) - 1979年(昭和54年)
  • 田原利信 1979年(昭和54年) -
  • 中嶋裕史 2002年(平成14年)5月1日 - 2018年(平成30年)4月30日)4期

町議会

  • 定数: 14人
  • 任期: 2027年4月30日

主な施設

  • 町立歴史民俗資料館
  • アザレアホール須恵(須恵文化会館)
  • カルチャーセンター
  • 須恵町立図書館

消防

警察

地域

人口

須恵町と全国の年齢別人口分布(2005年) 須恵町の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 須恵町
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
須恵町(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年) 12,350人
1975年(昭和50年) 15,849人
1980年(昭和55年) 18,546人
1985年(昭和60年) 20,085人
1990年(平成2年) 22,209人
1995年(平成7年) 24,125人
2000年(平成12年) 25,086人
2005年(平成17年) 25,601人
2010年(平成22年) 26,044人
2015年(平成27年) 27,263人
2020年(令和2年) 28,628人
総務省統計局 国勢調査より

教育

小学校

  • 須恵町立須恵第一小学校
  • 須恵町立須恵第二小学校
  • 須恵町立須恵第三小学校

中学校

  • 須恵町立須恵中学校
  • 須恵町立須恵東中学校

高等学校

産業

須恵町は近世、福岡藩(黒田藩)指定の磁器「須恵焼」の製造地であったが、明治維新後は石炭産業の街として大きく発展した。その契機となったのは、1888年(明治21年)に須恵村新原(しんばる)地区が海軍予備炭山に指定され、新原採炭所が創設されたことである。

1889年(明治22年)には新原に第1立坑(深さ30m)と第2立坑(深さ50m)が開坑し、さらに隣接する宇美町桜原に斜坑の第3坑が開坑。1890年(明治23年)には「海軍採炭所」へ改称され、これにともない第1・第2立坑は廃坑となった。

海軍炭鉱の石炭を軍港へと輸送するため、1904年(明治37年)には私鉄の博多湾鉄道(現在のJR香椎線)が開業。当時の軍港があった西戸崎駅から須恵駅までが開通した。これに合わせ、新原本部庁舎の建設と新原第4坑の開坑が進められ、須恵駅から新原の鉱業所までは仮線を敷設して先行輸送が行われた。博多湾鉄道は1905年(明治38年)6月に新原駅、同年12月には終点の宇美駅へと延伸された。

その後、志免村での第5坑開坑にともない、1909年(明治42年)には酒殿駅から旅石支線(貨物線)が分岐し、志免貨物取扱所(のちの志免駅)が、1911年(明治44年)の旅石第6坑開坑により、1915年(大正4年)には旅石駅までが延伸開業した。これ以降の炭鉱開発は、主に志免町内や粕屋町内(排気専用坑口)へと移っていく。

戦後の1951年(昭和26年)に新原第4坑が廃坑となると、中堅鉱業者の新栄鉱業株式会社が「新原鉱業所」を開設し、良質な石炭を国鉄へ納品する契約のもとで採掘を続けた。しかし、1960年代(昭和30年代後半)からのエネルギー革命にともない、国鉄車両の動力近代化(蒸気機関車から電気機関車やディーゼル車への転換)が進展。埋蔵量は十分であったものの、政府の国内炭鉱縮小方針により衰退へと向かった。

晩年まで存在していた坑口のうち、1960年(昭和35年)に旅石第6坑が閉坑したことで、旅石駅および旅石支線(志免〜旅石間)が廃止された。新原地区の旧本部庁舎跡地や第4坑斜坑口の敷地は「新原公園」へ、隣接する付属工場跡地は「新原工業団地」へと転用された。また、旅石駅や第6坑の跡地、およびそのボタ山(硬山)は、現在は平地へと均されて福岡県立須恵高等学校などの敷地として活用されている。

旅石駅から志免駅にいたる単線の線路跡は、須恵町と志免町の町道(生活道路)へと転用された。元が線路敷であるため道幅は狭く、沿線の建物が道路に背を向けて建てられていることや、鉄道特有の緩やかなカーブを描いていることが特徴である。なお、周辺に国鉄・JRの寝台車用寝具(毛布、浴衣、シーツなど)の洗濯・消毒を担う「九州鉄道リネンサービス株式会社」などの関連企業が存在することも、かつてこの地に国鉄の炭鉱が存在した歴史を今に伝えている。

名所・旧跡・観光スポット・祭事

  • 皿山公園 - 高台に位置する町立公園で、ツツジやアジサイの名所として知られる。園内には須恵町歴史民俗資料館が併設されており、町の歴史や文化にかかわる貴重な資料が展示・公開されている。
  • 黒田藩磁器(須恵焼)御用窯跡 - 江戸時代中期から明治にかけて栄えた、福岡藩(黒田藩)の御用窯跡。
  • 町立美術センター久我記念館 - 大正・昭和期の高名な画家・坂本繁二郎の才能を見出した画商、久我五千男(くがおちお)の個人美術館が前身。久我の没後、須恵町に寄贈されて町立美術館となった。
  • 岳城山(たけじょうさん)
  • 旅石八幡宮
  • 新原公園 - 旧海軍燃料廠採炭部(旧新原採炭所)の本部庁舎、および新原第4坑斜坑口の跡地に整備された公園。園内には、海軍炭鉱創業記念碑、海軍炭鉱創業記念史碑、移設された「第2坑竪坑の石標」、移築された「旧第3坑斜坑口の石組」(『海軍炭鉱第三坑』の文字が彫り込まれている)、萩尾善次郎海軍技師の胸像(顔が改造されたもの)、鉱山神社の祠(山の神)などが一般公開されている。
  • 上須恵須賀神社祇園山笠(かみすえすがじんじゃ ぎおんやまかさ) - 上須恵地区の代表的な祭り。約250年前に始まっったと伝えられている。疫病の退散を祈願して祇園祭をしたのが由来とされる。
  • 西原ボタ山(西原硬山) - 志免鉱業所が遺したボタ山のひとつ。須恵町・志免町・粕屋町の3町の境界にまたがるが、大部分は須恵町内に位置する。現在も美しい円錐形の形状を綺麗に留めている貴重な遺構であり、これほど美麗な状態で現存するボタ山は、筑豊全体を見渡しても飯塚市(旧穂波町)にある「住友忠隈炭鉱のボタ山」と並び、極めて稀である。

交通

空港

福岡空港が最寄り。

鉄道路線

須恵中央駅
九州旅客鉄道(JR九州)

この路線の前身は、海軍炭鉱から産出される石炭輸送を主目的として敷設された私鉄の「博多湾鉄道株式会社」である。現在の須恵町域にあたる区間は1904年(明治37年)から翌1905年(明治38年)にかけて順次開通し、町域内にはまず須恵駅と新原駅の2駅が開業した。 その後、同社は海運業への進出にともない「博多湾鉄道汽船株式会社」へと改称。1942年(昭和17年)には、同社を含む5社(九州電気軌道筑前参宮鉄道など)が合併して西日本鉄道株式会社(西鉄)が発足したため、一時的に同社の「糟屋線」となった。しかし、戦時下の国策(戦時買収)により1944年(昭和19年)に国有化され、運輸通信省(のちの日本国有鉄道)の管轄となった。 国鉄分割民営化後はJR九州へと継承され、現在は全線が旅客営業のみを行っている。1989年(平成元年)3月11日には、須恵町の中心部近くの利便性を高めるため、新たに須恵中央駅が開業した。

廃止路線

博多湾鉄道汽船は本線のほかに、1909年(明治42年)から1915年(大正4年)にかけて、酒殿駅志免駅旅石駅間を結ぶ貨物専用の通称「旅石支線」を開業させた。須恵町域内には終着駅である旅石(駅が設置され、主に海軍炭鉱第6坑からの石炭輸送を担っていた(なお、第6坑および旅石駅の跡地は、炭鉱閉山後に福岡県立須恵高等学校の敷地へと転用されている)。この旅石支線も本線(香椎線)と同様の歴史をたどり、西日本鉄道への合併を経て1944年に国有化され、国鉄香椎線の貨物支線となった。しかし、炭鉱の衰退にともない、須恵町内を含む志免駅〜旅石駅間は1960年(昭和35年)に廃止。残る酒殿駅〜志免駅間も1985年(昭和60年)に廃止され、支線は全廃となった。

バス路線

道路

高速道路

県道

主要地方道

須恵町出身の有名人

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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