日渡城
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(熊本県) | |
|---|---|
| 城郭構造 | 平山城 |
| 築城主 | 内田氏? |
| 築城年 | 不明 |
| 主な城主 | 内田氏?、富田氏続? |
| 廃城年 | 不明、文亀年間(1501年-1504年)? |
| 遺構 | 曲輪、土塁、井戸 |
| 指定文化財 | 史跡等未指定[1] |
| 位置 | 北緯33度01分57.7秒 東経130度46分09.5秒 / 北緯33.032694度 東経130.769306度座標: 北緯33度01分57.7秒 東経130度46分09.5秒 / 北緯33.032694度 東経130.769306度 |
| 地図 | |
日渡城(ひわたしじょう)は、熊本県山鹿市菊鹿町下内田日渡にあった日本の城(丘城)。築城年代は不明。江戸時代の柳川藩士・内田氏の系図では、豊後の戦国大名・大友氏の下に亡命した相良氏庶流・内田氏の肥後国での居城とされているが、『肥後国誌』あるいは『日本歴史地名大系』では隈部館または猿返城である永野城と混同されている。
歴史
享保8年(1723年)に編集された『柳河藩享保八年藩士系図』の、立花道雪や立花宗茂の重臣である内田鎮次(初め宗高)・内田鎮家の子孫にあたる内田氏の系図によると、同家は代々肥後国山鹿郡内田村の日渡城主であったが、文亀年間(1501年-1504年)に没落して大友氏の庇護を受けたとしている。
なお、同系図では日渡城は内田宗頼(左衛門太夫)以来の居城としているが、成立年不詳の『肥後国山北西安寺石堂碑文』では宗頼は初め山井氏を称したとし、内田氏一族の居城は山ノ井城・若宮城といわれ、日渡城については触れられていない。日渡城主の内田氏と、山ノ井城・若宮城主の内田氏との関係は不明。
『肥後国誌』では「隈部親永カ家人富田伊予守氏続永野城代に成」「里俗ハ日渡ノ城」というとあり、『肥後国誌』あるいは『日本歴史地名大系』で永野城と日渡城の混同が見られる。
また、天明8年(1788年)頃刊行の森本一瑞の著書『古城考[2]』では「里俗、下長野城と云」とあり、当城の南東250メートルに位置する下永野城(下長野城)と混同されている[3]。
