隈部親永
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木野氏断絶後に木野氏家臣軍団が臣従
主家の菊池氏が滅亡した後の隈部氏は、大友氏による菊池義武の擁立に協力して以降は、大友氏に臣従していた。
天文19年(1550年)6月19日に、父・隈部親家が死去したので家督相続すると、菊池氏の庶流木野氏・赤星氏・城氏と共に、大友氏傘下の菊池氏家臣団の中心人物となった。
隈部氏は、大友氏の支配下で、肥後国北部を、菊池氏の庶流木野氏・赤星氏・城氏と共に、重臣として統治していた。
弘治2年(1556年)に、木野親政が死去した事に由り、菊池氏の庶流木野氏が断絶した。
木野氏の家臣だった者達が、隈部氏の家臣に成った。
菊池氏の庶流赤星氏との抗争
木野氏遺領を赤星道雲が相続した後で、木野氏遺領の一部を隈部親永が欲しがった事に由り、赤星氏とは敵対関係と成る。
永禄2年(1559年)5月には、木野氏遺領に侵軍して、赤星道雲を合勢川の戦いで破った。
敗退した赤星氏が、大友氏に援助を求めた為に、此れに対抗した隈部氏は、佐賀の龍造寺氏と同盟を結んだ。
菊池氏の庶流赤星氏を破って更に勢力を伸ばす
天正6年(1578年)11月に、薩摩の島津氏の支配下の日向国に、大友氏が侵軍して耳川の戦いで大敗すると、佐賀の龍造寺氏の支援を受けた。
天正7年(1579年)7月末に、佐賀の江上家種が率いる龍造寺軍の援軍を得て、赤星親隆(赤星道雲の嫡男)の家臣の星子中務丞の山鹿郡長坂城を攻める。
赤星親隆の叔父・合志親賢による救援軍に対しては、天正7年(1579年)8月1日に、合志親重や合志道玄を討ち取って、合志隆重を敗走させた[4][5]。
8月2日に、星子中務丞を自害させて山鹿郡長坂城を攻略した[6][7]。隈部氏の家臣の有働兼元が、山鹿郡長坂城の城番と成った[8]。
天正9年(1581年)4月13日に、佐賀の龍造寺氏の援軍と共に、赤星親隆の本拠地の菊池郡隈府城を攻撃して、4月21日に開城させた[9][10][11][12][13][14]。
隈部氏は、本拠地を山鹿郡永野城から菊池郡隈府城に移して、子の隈部親泰を山鹿郡城村城に入れる。所領が菊池郡・山鹿郡・山本郡に及んだ。また菊池氏家臣と盛んに婚姻関係を結んで勢力を拡大させた。
菊池氏の庶流甲斐氏との抗争
天正8年(1580年)3月に、城親賢らと共に、大友方の阿蘇氏を攻めたが、阿蘇氏重臣の甲斐宗運によって白川亘過瀬において撃退された。
同盟者の佐賀の龍造寺氏の没落
天正12年(1584年)3月24日に、肥前の有馬氏が離叛して、薩摩の島津氏と同盟を結んだので、討伐する為に肥前国島原に進軍した佐賀の龍造寺氏だったが、沖田畷の戦いで同盟者の龍造寺隆信が討死する。
佐賀の龍造寺氏の勢力が急速に衰えたので、同年8月に、薩摩の島津氏が肥後国北部に侵攻して来ると、同年9月には人質を出して島津氏に降伏した[注釈 2]。
肥後国人一揆
天正15年(1587年)3月に、豊臣秀吉の九州征伐が始まると、他の肥後国人と同様に豊臣秀吉に恭順した。しかし所領は大幅に減らされた。
同年6月、佐々成政が肥後国一国の領主に任命されて、肥後国人は与力に組み込まれる事に成った。
佐々成政が差出検地を強行すると、領知権の侵害として豊臣秀吉の朱印状を盾に拒否して、7月には菊池郡隈府城に籠城した。
8月6日に、佐々成政が自ら六千の兵力で菊池郡隈府城を攻められると放棄して、山鹿郡城村城に移って籠城する。
肥後国人衆の多くが呼応して挙兵した為に、佐々成政は独力で一揆勢を鎮圧する事が出来無かったので、豊臣秀吉に援軍要請を行成った。
九州地方を唐入りの兵站基地と位置付けている豊臣秀吉は、早期解決を図って九州・四国の大名を総動員して肥後一揆勢を討伐させた。
12月6日に、玉名郡和仁城が、討伐軍に攻略された事に由り、籠城していた和仁氏が討死して滅亡した。
12月15日には、安国寺恵瓊に勧められた和議が成ったので、山鹿郡城村城を開け渡して、討伐軍に降伏した事に由り、肥後国人一揆が鎮圧された。
評価
熊本県の無形文化財である肥後琵琶の演目「菊池崩れ」は、隈部親永を、菊池氏に対する不忠不義の臣として描いている[15]。