曹純
中国後漢末期の武将。後漢の高陵亭侯・虎豹騎督将。豫州沛国譙県の人。
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一族
生涯
光和6年(183年)、曹純が14歳のときに父が39歳で死去した。この時、兄の曹仁が別居していたため、曹純が家を継いだ(『英雄記』)。
曹純は財産をよく管理し、数百人の召使・食客をよく監督したので、郷里の人々に有能だと認められた(『英雄記』)。また、学問好きで学者を敬愛したため、多くの学者が曹純の下に集まり、人々から賞賛された(『英雄記』)。
中平4年(187年)、曹純は18歳のときに黄門侍郎となり、中平6年(189年)、20歳のときに曹操に仕えた。襄邑での募兵に同行し、その後も曹操の側に付き従った(『英雄記』)。
議郎・司空軍事に就任した。
曹操は虎豹騎という精鋭騎兵隊を持っていたが、悩んだ末にその指揮官を曹純に任した。曹純は虎豹騎の指揮官になると、よく部下を可愛がり統率したので、部下からの信望が厚かったという(『魏書』)。
建安10年(205年)[5]、曹純は虎豹騎の指揮を執り、袁譚の籠る南皮の包囲戦に参加した。袁譚が軍の指揮を執って出撃し、曹操軍が多大な被害を受けると、曹操は撤退しようとした。しかし曹純は「遠方に遠征しているので、今退けば威光を失うでしょう。敵が勝利につけあがっており、自軍は敗北し慎重になっています。慎重さをもって、つけあがっている者と戦えば必ず勝てるでしょう」と進言した。曹操はこの意見を尤もだと考え、袁譚を激しく攻め立て敗走させた。曹純は直属の騎兵を指揮して追撃し、袁譚の首を斬った。
建安12年(207年)[5]、烏桓との戦い(白狼山の戦い)では、曹純の騎馬隊が蹋頓を捕虜にした。また、前後に亘る功績を認められて高陵亭侯に封じられ、300戸を与えられた。
翌建安13年(208年)[5]、曹操の荊州平定戦にも随行した。長坂では劉備を追撃し、劉備の2人の娘を初めとして多くの捕虜と輜重を得た。また、そのまま進撃し江陵を降した。
建安15年(210年)に死去。享年41歳(または40歳)。
曹操は曹純の死後、曹純ほどの指揮官は得られないとして、虎豹騎を自身で指揮を執る事を決めた。その後、ついに後任の指揮官が選ばれる事はなかったという(『魏書』)。
曹丕(文帝)の時代に諡号が送られ、威侯とされた。子は領軍将軍にまでなり、正元年間に平楽郷侯に昇進した。子が死去すると、孫が跡を継いだ。