白狼山の戦い
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190年代、袁紹と公孫瓚の抗争がまだ続いていた頃から、遼西烏桓を率いていた蹋頓は袁紹と誼を通じ、自らの精鋭騎兵部隊を援軍として送り込んで協力した。袁紹は公孫瓚の勢力を滅ぼす(易京の戦い)と朝廷の命令を偽造し、蹋頓らに印綬を与えた上で単于に任命した。袁紹は、自身の臣下の娘を養子にとり、烏桓の部族長らと婚姻させることにより、同盟を強化した。
200年、袁紹は官渡の戦いで曹操に大敗を喫し、202年に死去する。袁家一族は河北に強大な勢力をもっており、烏桓は袁紹の息子と関係を保った。袁紹が死んだ後、長男の袁譚と三男の袁尚(袁譚とは異母兄弟)は、それぞれ後継を表明し対立するようになる。曹操は郭嘉の進言により、両者が争うのを待ってから、その隙を突いて袁家の支配圏を攻略していった。袁譚は曹操と戦うも敗北して殺され、袁尚は幽州にいる次男の袁煕を頼って落ち延びた。袁煕が袁尚を受け入れたことにより、幽州の豪族に反感を抱かれ、結果として焦触・張南ら多くの離反を招いてしまう。結局、袁尚は袁煕とともに遼西烏桓の蹋頓に保護を求めて逃亡した。
征伐準備
その頃、曹操は華北を平定し、烏桓の力を頼んで冀州奪回を目論んでいた袁煕と袁尚の討伐を考えていたが、諸将たちはみな言った。「袁尚らが虜(異民族に対する蔑称)どもに身を寄せたまでのことです。奴らが袁尚を利用することはあっても親しくなることはなく、袁尚らのために我々と争うつもりはないでしょう。いま深く侵入して彼らを征討するならば、劉備はきっと劉表を説得して許を襲撃させるでしょう。万一変事が起こったならば取り返しのつかないことになります。」と。ただ郭嘉だけは、「蛮族は自分達が遠隔の地にいるのを良いことに防備を設けていないでしょう。それにつけこんで不意をつけば、容易に壊滅できます。これを放置したまま南征したりすれば、袁紹に恩を受けた烏丸どもは兵を集めこれを平定するのは難しくなります。劉表に劉備を使いこなす器量はありません。国中を空にして北方遠征に向かおうとも、心配することはありません。」と言い、曹操の懸念をうち払った。また、遠征の際には兵糧輸送が困難であることも懸念されていた。配下の董昭は曹操に進言し、建議平虜・泉州の二つの運河を掘って海へ引き、海上運送・運河を使った兵糧輸送を行ない遠征の支援をした。