服部直彰
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熊本県鹿本郡大道村藤井(現山鹿市)出身[3]。熊本県立鹿本中学校[3]、第五高等学校を卒業。1922年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し千葉県属となる[1][4]。
以後、大分県警察部勤務、山梨県警察部勤務、大阪府警察部勤務、京都府事務官、鹿児島県書記官・警察部長、警視庁保安部長、同刑事部長、福岡県総務部長、大阪府総務部長などを歴任[1]。
1941年1月、高知県知事に就任。戦時体制の整備などに尽力[1]。1942年7月7日、陸軍司政長官に発令され[5]、同年8月1日、第25軍軍政監部付・タパヌリ州長官に就任し同年12月まで在任。1943年4月、マライ軍政監部内政部長に就任。1944年4月、西海岸州(州都パダン)長官に転任[6]。1945年4月、陸軍省軍務局付となり帰国[7]。同年6月、中国地方副総監に発令され[8]、同年8月、原爆投下により左手首に火傷[3]を負いながらも救援活動に尽力。妻マサ[9]は爆死している[3]。同年10月、副総監を辞任[8]。
その後、故郷に短期間滞在後、上京し再婚したが、司政長官時の戦犯容疑により拘留され裁判を受けた。訴因は「反日活動家を多く検挙、留置して虐待した部下の行為を容認した」というものである。刑期10年の判決を受けて服役中のところ、1949年10月にスマトラ島メダンのランイン収容所で病死した[2][3][10]。正五位・勲四等[11]。