本岡昭次
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- 1950年(昭和25年) 兵庫師範学校(現在の神戸大学教育学部)予科を卒業、小学校教諭となる。
- 1980年(昭和55年)6月 日本社会党より参議院議員に初当選[4]。
- 1984年(昭和59年)8月8日 参議院建設委員長。
- 1993年(平成5年)9月21日に参議院政治改革に関する特別委員長となるが、翌年1月12日に特別委員会において委員長不信任決議が可決され、委員長を辞任。
- 1995年(平成7年)5月 社会党を離党、12月民主改革連合に参加。
- 1998年(平成10年)4月27日 新・民主党結党に参加。
- 2000年(平成12年)1月20日、参議院国家基本政策委員長。
- 2001年1月31日、参議院国家基本政策委員長。
- 2001年(平成13年)8月7日 参議院副議長に就任。
- 2003年(平成15年)11月3日 旭日大綬章受章[5]。
- 2004年(平成16年)7月 参議院議員の任期満了に伴い政界を引退。
- 2017年(平成29年)4月10日、病気のため死去。86歳没[2][3]。
立場
- 慰安婦問題に取り組んだ(後述)。
- 1999年の国旗及び国歌に関する法律案の採決に際して所属する民主党は党議拘束を外したが、この際、本岡は反対票を投じた。
慰安婦問題について
- 「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」の起案者として、法案提出を続けたことで知られている。そのため、この法案は別名「本岡法案」とも言われた。本岡も2007年3月27日の朝日新聞夕刊紙面(ニッポン人・脈・記)において、「政権交代したら、真っ先にこの法案が実現する」と強調していた。
散会事件
2004年の第159回国会において、内閣提出の年金関連法案の採決を控えて会期末が迫る 6月5日、 倉田寛之参議院議長不信任決議案審議のため副議長として議長席に着いた途端に散会宣言を行った。議事が残るにもかかわらず突然行われたこの散会宣言は参議院規則に反するものであり、中立であるはずの副議長が同法案の成立を阻止したい民主党の要請に従ったことと合わせて「参議院の権威が傷ついた」、「権利の濫用との批判を招きかねず『憲政史上例のない禁じ手』」等と批判を招いた。
国会法第117条では、「議事を整理し難い」場合には議長は散会して当日の審議を中止できると定められており、この権限は議事宰領を引き継いだ副議長も行使できるが、一方で参議院規則第82条では、当日の日程を全て消化した場合に散会が可能であるとしている。不信任決議案および年金関連法案の処理は日程に含まれていたため、隣に座る事務総長の制止を振り切っての散会宣言であった[8]。この散会宣言の後、議長席に戻った議長が、散会は無効であり、仮議長を選出して議事を続行すると宣言した。散会が有効であるとする立場の本岡副議長と野党議員(日本共産党以外)が不在の中、事務総長の議事宰領により仮議長を選出し、その仮議長の宰領で議長不信任決議案を否決し、議事宰領に復帰した議長のもとで年金関連法案は可決された。