江口克彦
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| 江口 克彦 えぐち かつひこ | |
|---|---|
| 生年月日 | 1940年2月1日(86歳) |
| 出生地 |
|
| 出身校 | 慶應義塾大学法学部政治学科 |
| 前職 |
参議院議員 PHP総合研究所社長 松下電器産業株式会社理事 |
| 所属政党 |
(みんなの党→) (無所属→) (次世代の党→) おおさか維新の会 |
| 公式サイト | 江口克彦公式サイト |
| 選挙区 | 比例区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 2010年7月 - 2016年7月 |
江口克彦(えぐち かつひこ、1940年2月1日 - )は、日本の経営者、政治家。経済学博士。一般財団法人東アジア情勢研究会顧問[1]、一般社団法人壷中の会顧問[2]。旭日中綬章、文化庁長官表彰、台湾紫色大綬景星勲章、台湾国際報道文化賞などを受章している[3]。
参議院議員(1期)、参議院国家基本政策委員長、参議院行政監視委員長、PHP総合研究所・PHP研究所社長、松下電器産業株式会社理事、台北駐日經濟文化代表処顧問、財団法人松下政経塾参与、内閣官房道州制ビジョン懇談会座長、みんなの党最高顧問・両院議員総会長、次世代の党顧問・両院議員総会長、おおさか維新の会国会議員団顧問などを歴任。
愛知県名古屋市生まれ。愛知県立瑞陵高等学校卒業。慶應義塾大学法学部政治学科卒業(中村菊男ゼミ)。
1964 年、松下電器産業株式会社に入社[4]。1967 年、PHP 総合研究所に異動し、松下幸之助の側近として活動する[4]。秘書室長、専務取締役、副社長を経て、2004 年に同社社長に就任[5]。長年にわたり同研究所の経営に携わった。また、台湾の政治家・李登輝と親交があり、長期間にわたり複数回の対談を行った[6]。政界では、2010 年の第22 回参議院議員通常選挙においてみんなの党公認で比例代表から出馬し当選[7]。2016 年に任期満了で退任した[8]。このほか、内閣官房の道州制ビジョン懇談会座長[9]、内閣府の沖縄新世代経営者塾塾長[10]などを歴任。引退後は講演・執筆活動のほか、一般財団法人東アジア情勢研究会理事長などを務め[11]、2024 年に同財団顧問理事[12]、一般社団法人壷中の会顧問に就任した。
来歴
慶應義塾大学教授・中村菊男との出会い
書店で立ち読みした慶應義塾大学教授中村菊男の『民主社会主義の理論 政治心理学的考察』(青山書院、1952年)に衝撃を受け、慶應義塾大学法学部政治学科に入学した[4][13]。そして3年生の時、25倍の倍率を突破して念願の中村菊男ゼミに入る。卒業後も長く交流を続け、PHP研究所に異動後には、中村菊男と松下幸之助の面談が実現している。中村菊男は50冊以上の著書を残している[14]が、江口が数多くの著書を上梓しているのもこの影響を受けているためである。
経営の神様・松下幸之助との出会い
1964年松下電器産業株式会社入社後、1967年1月にPHP総合研究所に異動、同年9月から松下幸之助の側での仕事が始まる[4]。「わしのそばで、2年間、勉強せぇへんか」松下幸之助との出会い。1971年6月の終わりごろ、松下幸之助と京都の私邸真々庵で縁側に立って庭を眺めていると「江口君、来月から、人間観の勉強をしよか」との言葉で翌月の7月から松下幸之助と2人だけの「人間観」の勉強会が始まる。実に6カ月休みなく毎日続けられ、その年の12月中旬、いつものように勉強会が始まりお昼前になった頃、「これ、まとめたからな、わしはもう死んでもええわ」との松下幸之助の言葉に感銘を受ける[15]。翌年、「人間を考える~新しい人間観の提唱~」(1972年、PHP研究所)を発刊[16]。
松下幸之助との日々
松下幸之助からの呼び出しの電話は、平日はもちろん、土日も含めて毎日のようにかかってきたとされる[4]。平日の場合は、早朝や夕方で、朝早い時は4時前後に電話があり、始発電車で松下幸之助のもとに向かい、朝食をともにしながら仕事の指示や確認、雑談を行った。夕方の場合は、16時ごろ電話が入り、19時に訪問し、夕食をとりながら仕事の報告とともに政治経済や当時の考えなどを聞き、その後21時のニュースを見て帰宅する日々であった。
また、夜間に電話があり、「あぁ江口君か。わしや。夜遅く電話してすまんな。けどな、わしな、きみの声がききたかったんや、きみの声を聞いたらな元気が出るんや」と語ったとされる[15]。このような日々の中で、二人だけの会話から多くの言葉
PHP総合研究所の経営を任される
1976年4月24日、PHP総合研究所の経営を担当するように松下幸之助から指示があったとされる[4]。当時の経営状況は赤字で売り上げが9億円、社員数は85名であったとされ、その年に創業30周年を迎える頃であった。途中、松下幸之助から「わしの言う通りにやるんやったら、きみは要らんよ」との言葉があったとされる中、赤字経営の立て直しに取り組んだとされる[4]。「第二創業期」と呼ばれる時期を実現したとされ、出版活動やシンクタンクとしての機能を強化し、講演活動などを通じて松下幸之助の思想の普及に努めたとされる。その後、経営者として長期間にわたり経営を担い、売上や組織規模の拡大に寄与したとされる。2009年に同社社長を退任した[11]。
台湾民主化の父・李登輝総統との出会い
1986年、当時台湾副総統であった李登輝と台北で堺屋太一とともに初めて面会したとされる[12]。共に「日本精神」で共鳴したとされる。1997年4月29日には坂本龍馬の「船中八策」をモデルに台湾の民主化と国際社会への提案を李登輝に書簡で送ったとされる。また、1999年には『台湾の主張』(PHP研究所)を発刊した[17]。
その後も交流が続き、長期間にわたり面会や対談を行ったとされる。日台の政治問題だけでなく、生き方や思想に関する対話も行われたとされる。2015年7月22日には、国会議員会館に李登輝元総統を招き講演が行われた[18]。
参議院議員として
2009年2月、渡辺喜美、江田憲司両衆議院議員の呼びかけに応じ、「脱官僚」「地域主権」「国民生活重視」推進のための国民運動体に参加したとされる[11]。2010年7月第22回参議院議員通常選挙において、みんなの党公認で比例区から出馬し当選した[19]。同党の最高顧問に就任したとされる。任期中は、道州制に関する政策活動に取り組み、「道州制懇話会」を立ち上げ活動したとされる[9]。
2013年7月に参議院国家基本政策委員長、同年8月に参議院行政監視委員長に就任した[7]。2014年6月21日、渡辺喜美の借入問題を受けてみんなの党に対して離党届を提出し、その後受理されたとされる。
2014年8月、次世代の党に入党し、憲法調査会長および顧問を務めたとされる。2015年12月、同党の党名変更に伴い離党し、その後おおさか維新の会に入党したとされる。2016年3月17日、第24回参議院議員通常選挙には出馬せず、引退する考えを表明した[7]。
引退後の活動
松下幸之助の言葉やその心を伝える講演活動や執筆活動を続けている[11]。著書は多数にのぼる[17]。また、台湾と日本との交流に関する活動にも取り組んでいるとされる。2019年に一般財団法人東アジア情勢研究会理事長に就任し、2024年に同理事長を退任し顧問理事に就任した[12]。同年、一般社団法人壷中の会顧問に就任した[2]。
政策
所属議員連盟
- みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会[25]
- 親学推進議員連盟[26]
- 北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟[3]
- 危機管理都市推進議員連盟[3]
- 経済協力開発機構(OECD)を支援する超党派議員連盟[3]
- 自然エネルギー促進議員連盟[3]
- 新憲法制定議員同盟[3]
- 自主憲法研究会[3]
- 尊厳死法制化を考える議員連盟[3]
- 道州制懇話会[3]
- みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会[3]
- 日本の領土(竹島・尖閣諸島等)を守るため行動する議員連盟[3]
- 東京オリンピック・パラリンピックに向けて受動喫煙防止法を実現する議員連盟[3]
- 北方領土返還・四島交流促進議員連盟[3]
主な役職
主な経歴はは以下の通り[27]。
- 内閣官房 道州制ビジョン懇談会 座長
- 内閣府 沖縄新世代経営者塾 塾長
- 内閣府 公務員制度の総合的改革に関する懇談会 委員
- 内閣府 イノベーション25戦略会議 委員
- 建設省 都市再生推進懇談会 委員
- 国土交通省 観光に関する懇談会 委員
- 内閣総理大臣諮問機関経済審議会 特別委員
- 大阪大学大学院 客員教授
- 立命館大学経営大学院 客員教授
- 中小企業大学校 客員教授
- 地域主権型道州制国民協議会 会長
- 名古屋市経営アドバイザー(専門委員)
- 憲法円卓会議 座長
- 松下社会科学振興財団 専務理事
- 特定非営利活動法人「武士道協会」副理事長
- 研究提言機構「世界を考える京都座会」コアメンバー
- 研究提言機構「次代を考える東京座会」座長
- 「歴史街道」推進協議会 理事
- 経済同友会 幹事
- 京都経済同友会 常任幹事
- 社団法人 京都音楽文化協会 理事
- 財団法人 学生サポートセンター 評議員
- 関西師友協会 理事
- 関西学生発イノベーション創出協議会 顧問
- 美ら島沖縄大使
- 松下電器産業株式会社(現:パナソニック株式会社) 理事 他
- 親学推進議員連盟 副会長
- 親学推進協会 評議員
- 一般財団法人日本教育推進財団 顧問