朱在
中国南宋の理学者・政治家
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経歴
朱熹の三男であり末息子として生まれた。家庭で教育を受け、黄榦に師事した。紹熙5年(1194年)、蔭位により承務郎に任官し、地方官を転々とする。慶元6年(1200年)、父の喪に服した。開禧3年(1207年)、軍糧輸送の功により承奉郎を授けられ、嘉定元年(1208年)には承事郎に補任された。翌嘉定2年(1209年)、聖旨により職事官の待遇を認められた。嘉定3年(1210年)、泉州通判となり、さらに宣義郎・宣教郎に転じ、司農丞・大理正を務めた。嘉定8年(1215年)、通直郎を授けられた。
嘉定9年(1216年)、南康軍知軍となり、嘉定12年(1219年)には承議郎に転じた。湖州知州・信州知州に任じられたが、赴任しなかった。任地へ赴き奏文を上げるよう促され、さらに提挙浙西常平茶塩公事を経て右曹郎官となり、嘉興府知府を兼ねた。嘉定15年(1222年)、寧宗が「恭膺天命の宝璽」を受け付けたことの恩賜として朝奉郎を授けられ、和糴の功により朝散郞となった。再び提挙浙西常平を代行し、入朝して司農少卿に任じられた。嘉定16年(1223年)、嘉興での実績が認められ朝請郎を授けられ、枢密副都承旨・朝奉大夫に昇進した。その後、両浙転運副使となり塩政に優れていたため、朝散大夫を授けられた。
宝慶元年(1225年)、寧宗の山陵が完成すると、秘閣修撰となり、従来通り転運副使・司農小卿に任じられた。宝慶2年(1226年)、権工部侍郎となった。翌宝慶3年(1227年)3月、理宗に拝謁し、学問の要諦について述べるとともに孔子廟から王雱の画像を取り去ることを勧めている。この時、理宗は朱在に朱熹の著作である『四書注解』が精密で統治に足しになると賞讃し、衣帶や鞍馬を賜った。同年、郊祀の恩賜として建陽開国男に封じられ、食邑300戸を受けた。紹定元年(1228年)、朝議大夫・吏部右侍郎に任じられ、再び衣帯や鞍馬を賜れた。紹定2年(1229年)、地方への転勤を三度も請い、平江府知府に移った。
紹定3年(1230年)、辞職を請ずると、煥章閣待制・袁州知州となり、中奉大夫を授けられた。開国子に陞爵して食邑200戸が加えられた。嘉熙元年(1237年)、建安郡開国侯に封じられ、さらに食邑200戸が加えられた。
嘉熙3年(1239年)9月、71歳で死去。銀青光禄大夫が追贈された。
朱子学の創始者として崇敬される大儒朱熹の息子であったが、史弥遠政権に迎合して官歴を続けたため、当時の理学者の間で評判は良くなかった。葉紹翁は「考亭(朱熹の別称)の息子である朱在は、時勢に媚びてついに法従(皇帝の側近)の地位に上がった。彼の父が王淮に逆らったこととは異なった。私はかつて福建の士人と同じ船に乗り込み、朱在が父に倣えなかったことを相共に嘆き、また武夷山を根も骨もすべて売り払ったと言った」という逸話を回想しながらその行跡を非難している[2]。