朽木元綱
戦国時代から江戸時代前期の武将、大名、寄合旗本。従五位下、信濃守、河内守。
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生涯
前半生
翌天文19年(1550年)4月21日、父・晴綱が高島郡河上荘俵山において同族の高島越中守と戦って戦死しているが、元綱はこのとき僅か2歳であった[1][2]。
永禄11年(1568年)、15代将軍・足利義昭が上洛すると、同年10月14日、元綱は義昭より朽木谷の地を安堵された[3]。また、同年12月12日には浅井久政・長政父子より高島郡内で千石の新地を宛がわれた上、守護不入の約束を含む起請文を受けているが(『朽木文書』)、実際には浅井氏との繋がりが浅かったとされており、後述の朽木越えにおいては浅井氏から離反して織田信長の帰還に助力している[3]。
翌永禄12年(1569年)、義昭の宿所であった本圀寺が三好三人衆らに襲撃された際、元綱は朽木谷より駆け付けて防戦に加わった(本圀寺の変)。その後、義昭よりその功を賞せられて4代将軍・足利義持が自画自賛したという一軸および吉光の短刀を与えられている[4][5]。
朽木越えから織田家臣時代
元亀元年(1570年)の金ヶ崎城の戦いにおいて元綱は越前国敦賀から朽木谷まで撤退した信長を武装して出迎えたため、信長を驚かせたという[6]。このとき信長は元綱の異心を疑ったが、元綱は松永久秀の説得に応じて信長に拝謁し、その後京までの嚮導を務めた(朽木越え)[7]。
この当時の元綱は室町幕府の奉公衆という立場にあったが、次第に織田氏への従属性を強めていくようになり、翌元亀2年(1571年)2月、磯野員昌が信長に降ると元綱は高島郡新庄に封じられた[3]。しかし実際には員昌の麾下に組み入れられたものと思われ、天正6年(1578年)2月に員昌が逐電すると、新たな高島郡の支配者となった津田信澄に属した[3]。また、元綱は高島郡と隣接している山城国久多荘の代官も務めていたが、翌天正7年(1579年)4月に「非分」を行ったという理由で代官の職を罷免されている[3]。
豊臣家臣時代
天正12年(1584年)、元綱は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に属して朽木谷を安堵された[6]。
天正18年(1590年)の小田原の役では300騎(または200騎)を率いた[8]。また同年11月5日には従五位下・河内守に叙任されるとともに豊臣姓を下賜された[6]。
文禄元年(1592年)の文禄の役では肥前国名護屋城に駐屯[6][9]。
文禄4年(1595年)8月8日には高島郡9,203石2斗を安堵され、同年11月21日には高島郡における豊臣家蔵入地の代官に任ぜられた[6]。
慶長3年(1598年)の醍醐の花見では、秀吉の側室・松丸殿に随行し、同年8月、秀吉の死に際して遺物国吉の刀を受領した[6]。
関ヶ原の戦いと晩年
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初西軍に属して大谷吉継による北陸方面の戦いに従軍するが、本戦において小早川秀秋に呼応して脇坂安治や小川祐忠、赤座直保らと共に東軍に寝返り[6]、その後佐和山城攻めに従軍した[10]。しかし事前に内通の意思を示していなかったため、戦後2万石から9,550石に減封されている[6][11]。また、没収されたのは元綱が代官を務めた蔵入地で所領は安堵されたという説や、そもそも元綱は関ヶ原の戦いには参戦していなかったのではないかとする指摘もある[12]。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では嫡男・宣綱とともに永井直勝の組に属した[7]。
元和2年(1616年)、家督を宣綱に譲ると剃髪して牧斎と号し、宣綱に6,470石を分知すると、残り3,240石を自身の隠栖料とした[13]。その後、徳川秀忠の談判衆となり、随時江戸城に登城して秀忠の側近に侍した[13]。
寛永9年(1632年)8月29日、朽木谷において死去。享年84。
死後、遺領は3人の息子に分割されたために、朽木宗家は6,300余石となった。後に末子の稙綱が江戸幕府3代将軍・徳川家光の信頼を受けて大名として取り立てられたために、嫡流よりも庶流のほうが所領が上回るという現象が起きている。
逸話
- 天正15年(1587年)、秀吉の御伽衆として聚楽第に出入りしていた山名禅高(豊国)がふと秀吉に「朽木元綱は粗忽の人」と話題に興じるが、これを聞いた秀吉は「元綱が粗忽者であることは天下周知の事実だが、お前の粗忽はそれどころではあるまい」と笑った。一座の者たちが不審な顔を浮かべたが、秀吉は「元綱は粗忽の人であっても、先祖伝来の朽木谷を立派に守り通しているのに、お前は六分ノ一殿と謳われた山名家をすべて失い、今では寄寓の身となり、あちらこちらとさまよっているのはどうだ。これ程粗忽な人は他にあるまい」と言った。これに対し禅高は恥じ入る様子もなく、ただ苦笑するしかなかったという(『徳川実記』)[14]。なお、同様の逸話が『岩淵夜話』にも見られるが、こちらでは秀吉ではなく徳川家康が禅高を窘めている[15]。
- 関ヶ原の戦いの後、元綱は細川忠興の取り成しによって家康と面会するが、その際家康より「その方などは小身なれば、草の靡きというもので、敵となっても大罪にはならぬ。本領安堵を申し付くべし」と言われたという(『関原軍記大成』)[16]。
注釈
- 飛鳥井雅綱の子(従妹)。