醍醐の花見
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豊臣秀吉は豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な花見を催した[1]。この花見の開催に際しては、醍醐寺第80代座主である義演が大きく関与したとされる。応仁・文明の乱の後に荒廃していた醍醐寺を復興し、同寺中興の祖ともいえる義演は、秀吉の帰依を得て良好な関係を築いていたが、秀吉の死期が近いことを感じ取ると、一代の華麗な英雄の最後にふさわしい大舞台をしつらえるために、あちこちにそれとなく手配をしてこの醍醐の花見を実現させたともいう。秀吉はこの花見の約5か月後に没した。なお、秀吉はこれに先立つこと4年の文禄3年(1594年)春に、天下統一を成し遂げて文禄の役も一段落したころに、桜の名所・吉野山で「豊公の吉野の花見」を催している[注釈 1]。
この花見で詠まれた和歌の短冊は今も「醍醐花見短籍」(重要文化財)として三宝院に保管されている[3][4][5]。
醍醐寺では、現在でもこれにちなんで毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」を催している。

