李瓊 (滄州)
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若くして滄州に属して騎士となった。同光元年(923年)、後唐の荘宗が河北を平定すると、李瓊は李嗣源の麾下に属して、小校に累進した。同光2年(924年)、李嗣源が勅命を受けて、兵を率いて幽州に食糧を運び入れた。ときに石敬瑭が従軍していたが、涿州で契丹と遭遇して、包囲下に陥った。李瓊は諸軍がすでに撤退したのをみて、ひそかに石敬瑭の衣を引っばって、東を指して逃走した。劉李河までいたると、契丹の襲撃を受け、李瓊は水に浮かんで先に南岸にいたった。石敬瑭は河の中に入ったが、馬が倒れて下流に流された。李瓊は長矛を伸ばして石敬瑭を助け出し、石敬瑭に馬にまたがらせて、自分は徒歩で護衛し、涿州の州城に入ることができた。石敬瑭が李嗣源に李瓊を推薦すると、李瓊は李嗣源に賞賛され、ほどなく軍職に任じられた[3][2]。
同光4年(926年)、李嗣源が趙在礼を鄴都に討つこととなった。鄴都の軍が変を起こすと、李嗣源は魏県まで撤退した。石敬瑭に騎士300を率いて汴州に走らせた。ときに荘宗が騎将の西方鄴を派遣して汴州を守らせていたため、石敬瑭は李瓊に精鋭を率いて汴州の封丘門に突入させ、石敬瑭はこれに続いた。ほどなく西方鄴は撤退し、汴州は平定された。石敬瑭が保義軍節度使となると、李瓊は雲騎指揮使に任じられた。まもなく侍衛親軍指揮使に転じた。長興元年(930年)、石敬瑭に従って梓州を討ち、剣州にいたると、李瓊は部下の兵を率いて剣南東川節度使の董璋の軍数千を破り、重傷を負った。凱旋すると、龍武軍指揮使となった。清泰2年(935年)、雲州に駐屯し、しばしば契丹の人馬を捕らえた。功により奉聖軍指揮使に任じられた。単州馬歩軍副指揮使に転じた[4][2]。
後晋の天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、李瓊は護聖軍都虞候となった。石敬瑭と旧交があって助力したことから、前後して手厚く金帛を賜ったが、その爵位は昇格しなかったので、李瓊は鬱屈としていた。長らくを経て、横州刺史を遥領した。天福5年(940年)、申州刺史として出向した。天福7年(942年)、少帝が即位すると、李瓊は入朝して殿前散員都指揮使となり、雷州刺史を遥領した。まもなく棣州刺史に転じた。楊光遠が青州で叛くと、自ら兵を率いて棣州を攻撃し、手紙で李瓊を誘ったが、李瓊はこれを拒んだ。開運2年(945年)、洺州団練使となり、検校司空を加えられた。開運3年(946年)、護聖軍右廂都指揮使に任じられ、岳州団練使を遥領した。洺州の官吏や民衆たちは列をなして李瓊の留任を求めたが、朝廷は許可しなかった。杜重威が契丹に降ると、李瓊は威州刺史に任じられた。赴任する途中で、鄭州で反乱軍の攻撃に遭い、方太とともに防戦したが、流れ矢に当たって死去した。享年は65[5][2]。