方太
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経歴
若くして青州に属して小校となった。登州を守備していたとき、沿海の人々をさらおうとして事が漏れ、平盧節度副使の淳于晏に匿われて、赦免された。後唐の清泰2年(935年)、義武軍節度使の楊光遠に仕えた。清泰3年(936年)、石敬瑭が太原府で起兵すると、方太は楊光遠に従って石敬瑭についた[1]。
後晋の天福2年(937年)7月、滑州で白奉進が符彦饒に殺害されると、方太は馬万や盧順密らとともに符彦饒を捕らえ、開封府へ押送した[2]。杜重威に従って張従賓を汜水関で破り、功績により趙州刺史に任じられた。楊光遠に従って范延光を興唐府で平定し、萊州刺史となり、安州防禦使に転じた。開運元年(944年)、少帝に従って澶州に赴き、契丹と戚城で戦って負傷し、鳳州防禦使に任じられた[1]。開運2年(945年)、赴任する途中に、河陽節度留後となり、安国軍節度留後に転じた[3]。
開運4年(947年)、契丹(遼)が開封府に入ると、方太は遼の太宗の命で武定軍節度使を遥領し、洛京巡検とされた。前洺州団練使の李瓊とともに鄭州まで来たところ、駐屯する兵士に迫られて鄭王を号した。ときに嵩山の張遇の反乱軍が後梁の嗣密王朱乙を擁立して天子とし、鄭州を攻撃してきた。方太は李瓊とともにこれを討ち、反乱軍を敗走させたが、李瓊は流れ矢に当たって戦死した。方太は鄭州の財物を軍士に分配して、かれらを誘って西に向かおうとしたが、軍士たちは従わなかった。方太はひそかに洛陽に逃れた。劉晞が南方の許州に逃れると、方太は劉晞の牙校の李暉を殺して、行洛京留守事をつとめた。嵩山の張遇が朱乙を殺して、その首級を送ってくると、方太は洛陽の市にさらした。また伊闕の反乱軍の首領が天子を自称して、1万人あまりを率いて洛陽に入ろうとすると、方太は兵数百人を率いて迎撃し、これを撃破した。孟州の武行徳が河陽節度使として立てたいと、方太に使者を送って誘い出すと、方太は武行徳に殺害された[4]。