李紹文

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李 紹文(り しょうぶん、生年不詳 - 927年)は、末から五代十国時代にかけての軍人。もとの姓は張、名は従楚。本貫鄆州鄆城県[1]

若くして天平軍節度使の朱瑄に仕えてその配下となった。乾寧4年(897年)、朱瑄が敗れると、従楚は朱全忠に帰順した。四鎮の牙校となり、諸軍をつかさどった。天祐8年(911年)、王景仁に従って、柏郷の戦いに参加して敗れると、従楚は別将の曹儒とともに残軍を収容して、相州に退いて守った。晋軍が魏州を攻撃すると、従楚は兵を率いて黎陽県から黄河を渡ろうとしたが、舟がなかった。従楚は晋軍に迫られて、黎陽県・臨河県内黄県を転々として魏州にいたり、晋王李存勗に帰順した。従楚は李姓と紹文の名を賜った。紹文は曹儒とともに左右匡覇軍3000人を分け率いた。天祐10年(913年)、周徳威に従って劉守光を討ち、検校司空に進み、匡衛軍に移り率いた。天祐12年(915年)、博州刺史に任じられ、劉鄩元城県で破った。貝州刺史・隰州刺史・代州刺史を歴任し、天雄軍馬歩軍副都将を領知し、徳勝口に駐屯した。天祐18年(921年)、閻宝に従って張文礼を討ち、馬歩軍都虞候となった。天祐20年(923年)、李嗣源鄆州を占拠すると、紹文は右都押牙・馬歩軍都将となり、李嗣源に従って王彦章中都県で破った。同光元年(923年)、徐州節度副使・滑州節度副使を歴任し、知滑州軍州事をつとめた[1]。同光3年(925年)、兗州節度留後となった[2]郭崇韜に従って前蜀を討ち、武定軍節度留後となり、知夔州軍州事をつとめた[1]。同光4年(926年)、夔州節度使に任じられた[3]天成元年(同年)、武信軍節度使となった[1]。天成2年(927年)3月4日、遂州で死去した[4]

脚注

伝記資料

参考文献

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