松下重綱
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
|---|---|
| 生誕 | 天正7年(1579年) |
| 死没 | 寛永4年10月2日(1627年11月9日) |
| 別名 | 吉綱、左助 |
| 戒名 | 州伝院長厳長洋大居士 |
| 墓所 | 福島県田村郡三春町字新町の州伝寺 |
| 官位 | 従五位下・右兵衛尉、石見守、兵部少輔[1] |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 豊臣秀吉→秀次→徳川家康→加藤嘉明 |
| 藩 | 遠江久野藩主→常陸小張藩主→下野烏山藩主→陸奥二本松藩主 |
| 氏族 | 松下氏 |
| 父母 | 父:松下之綱、母:松下連昌娘 |
| 兄弟 | 暁綱、重綱、方綱、おりん、松下長重室、中村正吉室、夏目吉信室 |
| 妻 | 正室:加藤嘉明長女・星覚院 |
| 子 | 長綱、佃和高室 |
松下 重綱(まつした しげつな)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。遠江国久野藩2代藩主、常陸国小張藩主、下野国烏山藩主。のちに陸奥国二本松藩初代藩主。官位は従五位下・右兵衛尉。諱は吉綱とも[1]。
天正7年(1579年)、近江源氏西條氏庶流松下氏の当主で、かつて豊臣秀吉が少年だった頃、主君として仕えていた松下之綱の次男として誕生する。
はじめ豊臣秀次に仕え、天正16年(1588年)5月3日、従五位下・右兵衛尉に叙任するが、このとき僅か10歳であった[1][2]。
文禄3年(1594年)1月には伏見城の普請を分担、また、この当時父・之綱に隠居料として4千石を分知し、自身は1万2千石を知行していた[1]。
慶長3年(1598年)に遠江国久野城主となり、1万6千石を知行[1]。また、同年5月より徳川家康に仕えて名乗りを石見守に改めた[2]。同年8月、秀吉の死に際して遺物兼元の刀を受領[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属して田中吉政らとともに岐阜城攻略に参加、このとき自らも奮戦して首級50を挙げた[2]。9月15日の本戦では曽根城に駐屯し、大垣城の牽制に当たった[1]。このとき、島津義弘によって曽根城を攻撃されるが、水野勝成の救援により窮地を脱している[2]。
慶長8年(1603年)、無断で城の石垣を築いた罪科により、常陸国筑波郡に移封となった[2]。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では本多忠朝に属して首級17を挙げた[2]。
元和2年(1616年)には下野国那須郡に移封となり、その後2万800石に加増された[2]。
寛永4年(1627年)、舅にあたる加藤嘉明が会津40万石に加増移封されると、娘婿だった重綱も陸奥国二本松藩5万石に加増移封されて嘉明の与力大名となった。
同年10月2日に死去。享年49。家督は長男・長綱が跡を継いだ。