松前高広 日本の江戸時代前期の大名。松前藩3代藩主松前氏広長男で、4代藩主 From Wikipedia, the free encyclopedia 松前 高広(まつまえ たかひろ、旧字体: 松󠄁前󠄁 高廣)は、江戸時代前期の蝦夷地松前藩(正式には交代寄合)の第4代藩主[注釈 1]。 時代 江戸時代前期生誕 寛永20年(1643年)死没 寛文5年7月5日(1665年8月15日)改名 千勝(幼名)、高広概要 凡例松前高広, 時代 ... 凡例松前高広時代 江戸時代前期生誕 寛永20年(1643年)死没 寛文5年7月5日(1665年8月15日)改名 千勝(幼名)、高広戒名 松前院殿漢臣利永大居士墓所 北海道松前郡松前町の大洞山法憧寺幕府 江戸幕府主君 徳川家光→家綱藩 蝦夷松前藩主氏族 松前氏父母 父:松前氏広、母:清(蠣崎友広の娘)兄弟 高広、松前広守室妻 正室:蠣崎利広の娘子 矩広、伊沢忠広、弥六郎、仙子テンプレートを表示閉じる 生涯 寛永20年(1643年)、第3代藩主・松前氏広の長男として蝦夷福山館にて誕生。慶安元年(1648年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし僅か6歳のため、藩政は高祖父の松前慶広の甥・蛎崎友広や蠣崎利広らによって執行された。承応2年(1653年)、湯の川温泉にて湯治を行う。 アイヌの集団であるメナシクルとシュムクルとの抗争が激化したため、承応4年/明暦元年(1655年)、仲介に入り講和させるが寛文年間には再び抗争が激化した。 寛文5年(1665年)7月5日に23歳で死去した。跡を長男・矩広が継いだ。 系譜 父母 松前氏広(父) 清、清涼院 ー 蠣崎友広の娘(母) 正室 蠣崎利広の娘 子女 松前矩広(長男) 伊沢忠広 松前弥六郎 仙子 ー 松前当広室 注釈 [1]松前氏(蠣崎氏)については江戸初期の松前盛広の扱いが文献により異なるため代数の加算に違いがみられる[1]。『藩翰譜』や『寛政重修家譜』などでは盛広を藩主と認めていないが、『松前家記』などでは盛広も藩主として数えている[1]。本項では松前慶広を藩祖とする歴代藩主の代数に関して盛広を含まない代数となっている。なお、蠣崎信広(武田信広)を初代とする歴代当主の代数に関して、国指定文化財「松前藩主松前家墓所」の解説では盛広を6代として含めており、高広を9代目の当主とする[2]。詳細は蠣崎氏を参照。 脚注 [1]「福島町の文化財」『福島町』。 [2]「北海道・松前郡松前町の文化財」『文化遺産オンライン』。 関連項目 湯倉神社 徳山大神宮 Related Articles