松前氏広

日本の江戸時代前期の大名。松前藩2代藩主松前公広次男で、3代藩主 From Wikipedia, the free encyclopedia

松前 氏広(まつまえ うじひろ)は、江戸時代前期の蝦夷地松前藩(正式には交代寄合)の第3代藩主[1][注釈 1]

時代 江戸時代前期
生誕 元和8年(1622年
改名 弁之助[1](幼名)、氏広
概要 凡例松前氏広, 時代 ...
 
松前氏広
時代 江戸時代前期
生誕 元和8年(1622年
死没 慶安元年8月25日1648年10月11日
改名 弁之助[1](幼名)、氏広
別名 主殿(通称)
戒名 氏広院殿直心宗性大居士
墓所 東京都文京区の諏訪山吉祥寺
北海道松前郡松前町の大洞山法憧寺
官位 従五位下
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光
蝦夷松前藩
氏族 松前氏
父母 松前公広大炊御門資賢の娘
兄弟 兼広松前広維室、氏広泰広広諶幸広蠣崎清広室、新井田成政室、女子、蠣崎広林
正室蠣崎友広の娘)
高広松前広守
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生涯

元和8年(1622年)、第2代主・松前公広の次男として蝦夷福山館にて誕生[1]寛永3年(1626年)に兄・兼広が早世したために世継となる。 寛永15年(1638年)に徳川家光御目見した。 寛永18年(1641年)、父・公広の死去により跡を継いだ[1]。 寛永20年(1643年)にアイヌヘナウケ(シマコマキの首長、シマコマキは現島牧郡島牧村)を先頭にしてアイヌ民族が大規模な蜂起をしたが、一族の蠣崎利広らに鎮圧させている[1]

慶安元年(1648年)8月25日、27歳で江戸藩邸において死去[1]。跡を長男・高広が継いだ。

系譜

父母

正室

子女

  • 松前高広(長男)生母は清涼院(正室)
  • 松前広守

注釈

  1. 松前氏(蠣崎氏)については江戸初期の松前盛広の扱いが文献により異なるため代数の加算に違いがみられる[2]。『藩翰譜』や『寛政重修家譜』などでは盛広を藩主と認めていないが、『松前家記』などでは盛広も藩主として数えている[2]。本項では松前慶広を藩祖とする歴代藩主の代数に関して盛広を含まない代数となっている。なお、蠣崎信広(武田信広)を初代とする歴代当主の代数に関して、国指定文化財「松前藩主松前家墓所」の解説では盛広を6代として含めており、氏広を8代目の当主とする[3]。詳細は蠣崎氏を参照。

脚注

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