松岡氏 (北勢四十八家)
日本の氏族
From Wikipedia, the free encyclopedia
北勢四十八家松岡氏と関連の松岡姓
- 北勢四十八家の領主の松岡氏は現在でも三重県北部の北勢地方に多数分布する姓であり、[2][3]越前国から春日部氏の家臣として、伊勢国の朝明郡・員弁郡・桑名郡にやってきた松岡彦之進家勝を初代とする。彦之進は員弁郡の上井城主・桑名市の東金井字・西谷の金井城主・員弁郡の城井戸城主であり、越前国丹生郡松岡城主の松岡太郎左衛門家政の二男である。天文年間(1532年 - 1555年)に金井城を築城し、永禄10年(1567年)9月9日に織田信長率いる滝川一益軍の伊勢侵攻により西の天白山で自害した。そののち金井城には羽柴下野守や種村左衛門尉が住んだ。一部の資料には天正10年9月9日や天正19年とあるが、この頃には滝川による伊勢侵攻は行われていないので誤記とみられる。[4][5][6]
- 大分県中部の大分市に松岡という地名がある。著名な武家である戸次氏の庶流に松岡家があり戸次松岡とも称した武家の一族が大友氏の重臣をつとめた。
- 肥後国松岡長康家は波多野義重の家臣であった越前国松岡庄地頭職松岡大学亮長明が懐良親王に付き添って延元の頃(1336年頃)に下向し、正平13年(1358年)に肥後八代に定住、正平16年5月22日(1361年)に亡くなったとされる。[9] 藤原利仁の末裔とされるが、[10]、一部の書籍では藤原利仁末裔説は否定されている。[11]
- これらのように越前国松岡ルーツを伝承とする松岡家は各地にあり、越前国松岡は越前松岡藩に比定されているが、松岡藩は慶安元年(1648年)に吉田郡芝原江上村が改名された地であり、上記の家勝や長明の伝説とは年代が合わない。
- 農家の家系と武士の家系が存在して、竹成米の品種改良で有名となった吉原家から三重郡菰野町の松岡氏に養子に来た松岡直右衛門のような農家の松岡氏と、桑名藩の武士の子孫の松岡氏がある。[12][13]
- 松岡姓は高知県と熊本県で多い苗字である。松岡は日本全国の苗字ランキングで68位から200位くらいの順位で多い苗字でも少ない苗字でもない普通の苗字である。三重県では三重県南部や津市・伊賀などで松岡姓が少ないが三重県北部では多い苗字である。熱田神宮家系の松岡真人の子孫や源氏及び中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)と桓武平氏の畠山氏の一族などの家系学説があるが、三重松岡家は熊本県菊池氏の一族説が有力である。
金井城
- 桑部村東金井西谷の山上にあり、地目は山林である。土塁の金井城の跡地がある。永禄時代の城郭で天文年間(1532年 - 1555年)に越前国丹生郡松岡の城主の松岡太郎左衛門家政の二男で朝明郡萱生城の配下だった松岡彦之進(金井氏と襲名)家勝が築城した。小山城主の高井氏、猪飼城主の小串氏、溝野城主の草薙氏と共に朝明郡の萱生城主だった春日部氏の春日部越前守の与力と従騎であった。
- 桑名の古文書によると永禄10年9月(1567年10月)に織田信長の家臣の滝川一益の攻撃で落城して、松岡彦之進家勝は村の西の天白山で自刃した。自刃したのち彦之進の遺児たちは東金井や桑部地域に逃げ延び、松岡家自体は残った。東金井では彦兵衛家、西金井では正彦家と今でも松岡彦之進家は残っている。東金井城跡には本丸・二之丸・三之丸等と思われる壇が見られて、土塁も部分的に残存している。城跡には討死した人を集めた塚がある。[14]遺址には松岡彦之進家勝の墓があった。場所は三重県桑名市の東金井の西谷から東谷の桑部地域である。金井城は、員弁川が伊勢湾の手前の約5km下流で大きく南へ曲折している南側に山魂の北端にあった。桑部城と同じ丘陵を東側へ600mの地点で、東金井の集落の南西の裏山である。遺構はたくさんあり、曲輪・土塁・空堀・塚である。天文年間に築城。現在の状態は山林。平山城で標高46.2m。[15]
- 明治初期に竹成五百羅漢を本尊守り仏とする三重松岡一族300人程度の人口が子沢山多産の農民家系であり、昭和戦後期に三重松岡家の人口が急増した。1990年代に三重松岡家の苗字人口が3000人程度となった。朝鮮人及び中国人など外国人の帰化及び創価学会員との結婚急増を背景とする女系養子家系の松岡家の急増で令和初期には4000人程度に松岡家の苗字人口が増加している。妻の苗字である松岡を名乗る松岡家婿養子の男性が多い事情の女系婿養子の松岡家が多いことから日本全国の松岡家が13万人から令和初期に松岡家人口が14万人に増加している。
桑名藩士
竹成村の松岡家
竹成村の竹成五百羅漢は江戸時代の地域の苗字松岡家の守護仏像である。松岡家の守護仏像として信仰される竹成地域の仏教彫刻である。嘉永年間に竹成村出身の神端和尚が慶應二年までの数年の年月をかけて竹成五百羅漢の多数の仏像を建設した地域である。朝明川右岸の台地上に集落と耕作地がある水不足が頻繁に発生する地域が竹成地域である。[16] 松岡直右衛門の母の名前は寿恵で長男で後継者の初代松岡直吉は明治24年に24歳の若さで死去したとされている。次男は栄三郎で長女は葉興で次女は興野で大正3年に死去した。孫の2代目松岡直吉の代には松岡家は没落していた。[17]住所の町名別では三重県で一番松岡姓が多い地域が三重郡菰野町の竹成地域である。
浄土真宗門徒の菊池松岡家
実業家
政治家
- 三重松岡家は日永村政及び桑名市政と一志郡及び川越村の建設農業関係の農政に関与した。明治34年から明治39年までの明治時代に幕末の桑名藩士で三重県一志郡長だった[20]松岡利弼が士族特権で桑名市になる前の桑名町の名誉職である町長を務めた。[21]
- 戦前の昭和10年代に建設会社を創業した松岡周太郎が1950年代(昭和26年から昭和34年)に川越村の村会議員(松岡家川越町議会の地盤の後継候補者は令和初期の公明党議員と昭和50年当選の農業組合出身の松岡一雄議員である)として建設行政を担当して三重県の公共事業の経営者として活躍した。[22][23]
- 三重郡日永村の松岡忠四郎と松岡栄太郎親子は三重鉄道や河曲銀行の経営に関わり、明治時代から昭和戦前期の三重県議会議員及び日永村政を担当して東洋モスリン工場を誘致した。[24]