越前松岡藩

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立藩年 正保2年(1645年
初代藩主 松平昌勝
廃藩年 享保6年(1721年
最終藩主 松平昌平
松岡藩
松岡陣屋(松岡館)跡
立藩年 正保2年(1645年
初代藩主 松平昌勝
廃藩年 享保6年(1721年
最終藩主 松平昌平
越前国
居城 松岡陣屋

松岡松平家
石高 50000石
種類 親藩大名
格式 無城(陣屋)
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松岡藩(まつおかはん)は、越前国正保2年(1645年)から享保6年(1721年)まで存在した、福井藩支藩松平昌勝松平昌平が藩主をつとめ、藩庁は松岡陣屋(松岡館)に置かれた。石高は5万石。

松岡藩の初代藩主となった松平昌勝は、福井藩主松平忠昌の庶長子であった。松平忠昌の死去に伴って、昌勝の弟で正室の子供であった松平光通が福井藩主となると、昌勝には松岡5万石、弟の昌親にも吉江2.5万石が与えられ、松岡藩が成立した。昌勝は結局、福井藩の藩主につけなかったものの、昌勝の嫡子・松平綱昌松平吉邦がのちに福井藩主となった。昌勝の跡を継ぎ福井藩主となったのは、子の昌平であった。福井藩主となっていた弟の吉邦が死去すると、昌平は福井藩主についたため、松岡藩は廃藩となり福井藩に吸収された。

正保2年(1645年)8月1日、結城秀康の子で福井藩主の松平忠昌が死去した[1][2]。忠昌には松平昌勝(千菊丸)、松平光通(千代丸)、松平昌親の3人の男児がいて、昌勝は寛永13年(1636年)3月生まれであるのに対して、光通は同年5月生まれと、昌勝の方が年長であったが、昌勝は側室の子であったため庶子として扱われていた[1]。そのため福井藩主を光通が継ぎ、光通の兄弟の松平昌勝(千菊丸)に5万石、異母弟の松平昌親(福松)に2万5000石が幕命によって分与された[1][2]。昌勝は内分知であるため、昌勝に領地朱印状が独自に与えられることはなく、光通分の朱印状に併記されていた[3]

松岡藩の陣屋吉田郡芝原江上村におかれており[4]慶安元年(1648年)11月3日に陣屋が完成してから、その地は「松岡」と改められたという[5]。慶安2年(1649年)に昌勝と昌親の領地高が確定した[6][4]。この際、福井藩と松岡藩の家老と奉公人が相談して、平均を3割6分1厘4毛7糸、取米1万8146石2斗3升4合と定められた[注釈 1][6]。その後承応3年(1654年)に、昌勝は初めて入部した[7]

延宝2年(1674年)、心労によって光通が死去すると、遺言に従って弟の昌親が後を継ぐこととなった[8]。兄である昌勝をさしおいて藩主となることが後ろめたかった昌親は、昌勝の長男である松平綱昌を事前に養嗣子として迎えることで事態の収拾を図り、延宝4年(1676年)7月に綱昌に家督を譲った[注釈 2][8]。ところが貞享3年(1686年)、綱昌が公務を果たさなかったため、病気または失心を理由として、福井藩は一旦改易となり[11]、前藩主・昌親が所領半減(貞享の半知)の上で福井藩主となった(以降、昌明ついで吉品に改名)[12]。この際に、松岡藩は福井藩と正式に分離されたともされている[5]

元禄6年(1693年)、昌勝が死去し、息子の松平昌平が松岡藩主となった[13]。元禄14年(1701年)、福井藩主の吉品は昌勝の六男(昌平の弟)である松平吉邦を養子として迎え、宝永7年(1710年)7月に吉品が隠居したため、家督を継いで藩主となった[13]正徳2年(1712年)には、初めて昌平が独自に領地朱印状をたまわっている[7]

享保6年(1721年)、宗邦が急逝すると、養子としていた千次郎(のちの松平宗矩、結城秀康の子・松平直基の曾孫)は7歳と幼少であったために、松岡藩主の昌平に白羽の矢がたった[14]。同年12月11日、昌平が千次郎を養子にとって福井藩主を継承し、松岡藩は廃藩となり、その所領は福井藩に吸収された[14][15]

歴代藩主

福井松平家

親藩、石高:5万石

氏名 院号 受領名 在職期間 享年 出自
1 松平昌勝
まさかつ
見性院 中務大輔[16] 正保2年(1645年)10月 - 元禄6年(1693年 57 福井藩主・松平忠昌の庶長子
2 松平昌平
まさひら
豊仙院 中務大輔[16](松岡藩主時) 元禄6年(1693年) - 享保6年(1721年 49 松平昌勝の子
宗昌と改名し、福井藩主に

家臣団

松岡藩の家臣団は、正保3年(1646年)1月に光通が昌勝付けを命じた43人の福井藩士に始まる[17]。昌勝時代(年不詳)の「松岡給帳」の記述によれば、士分のうち知行取が63人いたとされる[17]

所領

松平文庫の「松岡御領御知行分之帳」により、松岡藩の所領はある程度判明している[18][19]

松岡陣屋と陣屋町

松岡は芝原郷上村の地に、昌勝が治める藩の城下町として建設された[20]元禄10年(1697年)の記録によると、総間口は2050余間、家数は357軒であった[20]

しかし、松岡藩の廃藩後は、在郷町に変貌していった[20]。福井藩主としての宗昌の跡を継いだ、宗矩の時代である享保10年(1725年)10月18日に、宗矩は松岡の館と藩士の福井引越しを請願し、同20日に認可された[21]。そこで、同11年(1726年)に館が福井に移され、14年(1729年)には取り壊された[21]。同15年(1730年)には徒士が城之端に、同16年(1731年)と19年(1734年)は家中を毛屋に移し、この福井城下への引っ越しは元文4年(1739年)10月頃に完了した[21]。この城之端や毛屋は、貞享の半知(綱昌の改易と吉品の所領半減の上での継承)後のリストラによって空き地となっていた地区であり、この松岡藩士の引っ越しによって再び侍が住まうこととなった[21]

経済・産業

藩領の中心部が九頭竜川の周辺に位置していたため、水害に悩まされることも少なくなかった[19]

一方で、をはじめとする九頭竜川の川魚は、松岡藩の重要な産物でもあった[22]生類憐みの令が発布されたことで、一時期は家臣の漁を禁止されたがのちに解禁されている[22]

脚注

参考文献

関連項目

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