染木正信
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染木家が『寛政重修諸家譜』の編纂時に江戸幕府に提出した先祖書上によると、正確な生年は不明であるが、公称の享年から逆算すると万暦18年(1590年)頃の生まれ。ごく幼い頃に文禄の役(天正20年(1592年) - 文禄2年(1593年))に巻き込まれ、2歳上の姉とともに日本に連れてこられた[2][3]。
家伝によれば、姓は李氏で、父はある城の城主であったが、父の城が日本軍に攻め落とされ、幼い姉弟は乳母に抱かれて落ち延びようとしたところを片桐且元の手の者に生捕りにされた。豊臣秀吉は長束正家に姉弟を預け、正家の居城がある近江国水口で育った[2][3]というが、『寛政重修諸家譜』は以上の話を載せない[1]。
慶長3年(1598年)、姉が11歳、弟が9歳のときに秀吉の子秀頼の婚約者となった徳川家康の孫娘千姫の慰めのため、片桐且元によって姉弟は中国の童子衣装を着せられて台に乗せて献上された[1][2][3]。のちに姉は早尾と名乗って千姫の年寄となり、弟は染木という名の千姫年寄の養子となって[4]千姫に広敷として仕え、染木の名字を与えられて染木八右衛門正信と称し、35石5人扶持の知行を与えられた[2][3]。
慶長8年(1603年)、千姫の秀頼への入輿により大坂城に随従し、元和元年(1615年)、大坂夏の陣で大坂城が落城して千姫が江戸に戻るのにも従った[2][3]。元和2年(1616年)、千姫の本多忠刻への再嫁により本多家の桑名藩(のち姫路藩)に付属される[5]。
寛永3年(1626年)、忠刻に先立たれた千姫(天樹院)が江戸に帰った後も、天樹院が寛文6年(1666年)に没するまで土圭間取次役として仕えた[1]。この間に姉の早尾は慶安元年(1648年)に61歳で病死している。正信は天樹院より3年長生きし、寛文9年(1669年)に80歳で病死した[2][3]。
子孫
嫡男として利右衛門正美がおり、寛永20年(1643年)に父正信と同じ土圭間取次役として天樹院に召し出されて仕えた。寛文6年(1666年)に天樹院が没すると将軍徳川家綱に仕える御家人となり、広敷添番に任じられた。元禄3年(1690年)に病気のため辞職して小普請に入り、間もなく病死した[2][3]。
正美には男子がなく、妻の親族である右兵衛昌常が婿養子に入って表火之番、広敷添番を歴任した。延享4年(1747年)に昌常の養子として後を継いだ右兵衛美啓は昌常夫妻と血縁関係になく、正信の直系子孫は途絶えた[2][3]。
美啓は勘定に出世して一代限りの御目見以上(一代旗本)となったが、次の仁太郎正明は御家人に戻っている[2][3]。国立公文書館所蔵の江戸城多聞櫓文書に含まれる明細短冊により、染木家は35石5人扶持の譜代の幕臣として幕末の慶応年間まで続いていたことが確認できる[6][7]。