栗原 (座間市)
日本の神奈川県座間市の地名
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地理
座間市の北東部に位置している。
歴史
年表
- 江戸時代
- 元和年間 - 領主内藤清成は、慶長8年(1603年)、八王子往還を発展させるため、この道筋に内藤家菩提寺宗仲寺を建立し、徳川家康と親しい源栄上人を初代住職に招聘した。慶長13年(1608年)に清成が亡くなったため、その子内藤清次が父清成の遺志を継ぎ、八王子往還付近の開発を更に進展するため、元和年間(1615年~1624年)のはじめに、当時の座間村周辺の集落(長宿・星の谷・皆原・羽根沢など)から農民を移住させ、座間新宿を設けようとした。慶安の頃に至って整備が成ったことから座間村から座間新宿を分村する気運が生まれた[8][9]。
- 寛文2年(1662年) - 領主久世廣之大和守の検地の際から、高座郡座間村は座間新宿の地域を分村し座間宿村と座間入谷村が起立[注釈 4][10]。
- 元禄12年(1699年) - 幕府は、元禄年間はじめに相模野を10の区画に分け[注釈 5]、区画毎に近隣の村々の共同使用として、正式に入会野秣場の権利を認めることにした。座間地域が所有する芝原(しばあら)[注釈 6]が座間野と呼ばれるようになったのはこの頃からで、各区画には、野元(管理権)と呼ばれる入会野を管轄する村を設け入会野の運営に当たらせた[注釈 7][注釈 8]。
- 享保11年(1726年)11月 - 代官日野小左衛門は座間野(面積400町歩・約400ヘクタール)の検地を行い関係の各村に分割することにした[注釈 9]。
- 享保15年(1730年) - 座間野の内、芝原(しばあら)入会地秣場各大字(座間・座間入谷・新田宿・四ツ谷・栗原)の境界が確定した[12]。
- 嘉永6年(1853年) - 芝原(しばあら)入会地秣場の開墾が始まり、文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成し、座間宿村・座間入谷村・新田宿村・四ツ谷村の各戸に、平等に分割され畑とされ耕作が始まった。不毛な土壌で干害を受けやすかったが、桑栽培には適地であったので桑園として利用されていた[13]。
- 慶応4年(1868年) - 栗原分入会地秣場<現・ひばりが丘二丁目~四丁目全域・五丁目の大部分ほか(旧栗原字東原)>の開墾が始まる[14][15]。
- 明治
- 大正
- 昭和(戦前・戦中)
- 1933年(昭和8年)12月27日 - 神中鉄道(現・相鉄本線)全通。
- 1937年(昭和12年)9月30日 - 東京府東京市牛込区市ヶ谷台より陸軍士官学校移転完了。通称「相武台」[16]。
- 1937年(昭和12年)12月20日 - 町制施行し、高座郡座間町となる。人口6,555人[17]。
- 1939年(昭和14年)12月22日 - 八カ町村で「相模原軍都建設連絡委員会」結成。第1回総会は神奈川県庁3階の第2会議室で開かれた。『相模原市史第4巻』p633●軍都計画と八か町村の合併[注釈 13]。
- 1941年(昭和16年)4月29日 - この当時、人口8,072人[注釈 14]の座間町は大野村、新磯村、上溝町、麻溝村、大沢村、田名村、相原村と合併し[注釈 15]、人口48,482人の高座郡相模原町が誕生[20][注釈 16]。座間町の区域は相模原町の一部となる。
- 1944年(昭和19年)- 4月1日 - 今の東中学校・ひばりが丘小学校の位置に 高座海軍工廠が開廠(終戦後解体)[21]。
- 1945年(昭和20年)8月10日 - 天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外務大臣案(原案)を昭和天皇が採用し、ポツダム宣言を受諾[22][23]。
- 1945年(昭和20年)8月14日 - 日本政府は本宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告[24]、終戦の詔書発布。
- 昭和(戦後)
- 1945年(昭和20年)8月15日 - 終戦。正午、日本政府は宣言の受諾と降伏決定をラジオ放送による昭和天皇の肉声を通して国民に発表(玉音放送)[注釈 17]。
- 1945年(昭和20年)9月2日 - 日本国政府が降伏文書に調印、大東亜戦争・第二次世界大戦終結(日本の降伏)。連合国軍占領下により日本の主権が停止。
- 1945年(昭和20年)9月5日 - 日本国政府の降伏文書調印に基づき、陸軍士官学校が米軍に接収されキャンプ座間となる[注釈 18]。
- 1948年(昭和23年)9月1日 - 相模原町から旧座間町の区域が分離独立して座間町が再置される、人口12,032人[25][注釈 19]。
- 1948年(昭和23年)11月4日 - 県営相模原畑地灌漑事業計画樹立[26]。
- 1949年(昭和24年) - 県営相模原開発畑地灌漑事業着工[注釈 20][注釈 21]。
- 1952年(昭和27年)4月28日 - 日本国主権回復[注釈 22]
- 1952年(昭和27年) - 上水道創設決定[28]。
- 1953年(昭和28年) - 畑地灌漑用水路西幹線通水開始[29][注釈 23][注釈 24][注釈 25]。
- 1955年(昭和30年)1月1日 - 町営水道給水開始[注釈 26]。
- 1957年(昭和32年)1月 - 座間町「工場誘致の奨励措置に関する条例」制定[注釈 27]。小字東原に企業誘致始まる。
- 1957年(昭和32年) - 座間農協が有線放送電話開始[30][31]。
- 1959年(昭和34年)9月22日 - 座間入谷、栗原の各一部から大字立野台を新設[32]。
- 1960年(昭和35年)7月5日 - 座間入谷、座間、栗原の各一部から大字相武台を新設[33]。
- 1962年(昭和37年)10月1日 - 座間入谷、座間、栗原の各一部から大字緑ケ丘を新設[34]。「緑ケ丘」は公募により決定された[注釈 28]。
- 1963年(昭和38年)7月 - 日産自動車、地元地権者と用地約15万坪売買契約締結[注釈 29]。
- 1963年(昭和38年)12月5日 - 大字栗原の厚木電報電話局管内電話、全国ダイヤル自動即時化[39]。市外局番0462・市内局番21[注釈 32]。
- 1965年(昭和40年)5月30日 - 座間電報電話局管内[注釈 34]の電話、全国ダイヤル自動即時化[42]。市外局番0462・市内局番51[注釈 35]。
- 1968年(昭和43年) 7月1日 - 町内の郵便番号が付与される(〒228)[43]。
- 1971年(昭和46年)10月1日 - 座間栗原郵便局開局[注釈 36]。
- 1971年(昭和46年)11月1日 - 市制施行。人口62,740人[25]。
- 1974年(昭和49年)1月1日 - 大字相武台とその周辺の座間・座間入谷・栗原の大字小字を統合して、新たに相武台1〜4丁目を新設し昭和49年(1974年)1月1日から実施[注釈 37][44]。
- 1977年(昭和52年)11月1日 - 座間入谷飛地、栗原字東原、小松原の各一部からひばりが丘1〜5丁目を新設[45]。
- 1983年(昭和58年)11月7日 - 大字栗原小字東原から東原が町丁として新設、同時に住居表示実施[46]。
- 1985年(昭和60年)11月7日 - 大字栗原小字東原からさがみ野が町丁として新設、同時に住居表示実施[47]。
- 1987年(昭和62年)10月19日 - 大字緑ケ丘住居表示実施につき、栗原、緑ケ丘、入谷、相武台4丁目の一部を分離し、緑ケ丘二丁目~六丁目が町丁として新設、同時に住居表示実施[48]。
- 平成
現在、大字栗原の小字として、小池谷・小池東原・小池西原・小池原・中丸・芹沢・東原が現存する[54][55]。
終戦直後、東久邇宮首相の「国民皆農主義」の呼びかけもあって、皆が先を争って農業へと回帰することが時代の風潮となった。急ごしらえの「帰農組合」[注釈 39]が日本各地で作られ、耕せるところはどこでも耕そうと、耕作地の拡大に積極的に取り組んだ[注釈 40][56][57]。
大字小字・飛地の整理に関して追記
日産自動車座間事業所内には、行政地名として大字「栗原」字東原・字中丸、大字「座間入谷」飛地字西二ツ塚・字松ノ東・字出口の松・字老場東通り・字老場中通り・字老場台、の大字小字が実存している[58][59][60]。
