相模が丘
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| 相模が丘 | |
|---|---|
| 町丁 | |
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北緯35度30分33秒 東経139度25分26秒 / 北緯35.509269度 東経139.423817度 | |
| 国 |
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| 都道府県 |
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| 市町村 |
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| 人口情報(2023年(令和5年)8月1日現在[1]) | |
| 人口 | 23,202 人 |
| 世帯数 | 12,483 世帯 |
| 面積([2]) | |
| 1.365015691 km² | |
| 人口密度 | 16997.61 人/km² |
| 設置日 | 当該地域各大字小字を統合・地番整理を実施し 1959年(昭和34年)4月20日、高座郡座間町大字相模台起立。<1981年(昭和56年)6月1日座間市相模が丘と町丁に改編し住居表示施行> |
| 郵便番号 | 252-0001[3] |
| 市外局番 |
042(相模原MA)(一、二、三丁目の相模が丘仲よし小道さくら百華の道以北と五丁目全域。)[4] 046(厚木MA)(上記以外)[5][6] |
| ナンバープレート | 相模 |
相模が丘(さがみがおか)は、神奈川県座間市の町丁。現行行政地名は、相模が丘一丁目から相模が丘六丁目。住居表示実施済み区域[7]。
大字~町丁への変遷
当区域は元々相模野・座間野・芝原(しばあら)と呼ばれる原野の一部であり、主に座間宿村・新田宿村の入会地秣場とされていた。それまで人が誰も住んでおらず、江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった[注釈 1][注釈 2][注釈 3]。
江戸末期の嘉永6年(1853年)[注釈 4][注釈 5]にこの入会地が分割され、相模が丘は座間宿村・新田宿村・四ツ谷村・座間入谷村に組み込まれた[9][注釈 6][注釈 7]。
大字座間字北広野・字中広野の各小字全域、字南広野・字元広野・字元広野窪各小字の座間街道以北・字元広野窪の農道[11]以北、ほんのわずかな部分の大字座間入谷飛地小松原の座間街道以北[12]、そして新田宿飛地見分塚<小田急線線路境に辰街道[13]・座間市道7号相模原二ツ塚線の三角地帯>(相模が丘一丁目〜四丁目)[14]。
辰街道[注釈 8][15]・座間市道7号相模原二ツ塚線を境に大字新田宿飛地見分塚の小田急線線路から江戸街道[注釈 9]まで(相模が丘五丁目)[16]。
辰街道・江戸街道・座間市道7号相模原二ツ塚線を境に新田宿飛地見分塚(江戸街道から小田急住宅まで)と新畑全域、大字四ツ谷飛地二ツ塚の座間街道以北(相模が丘六丁目)。
以上の各大字小字・飛地である[注釈 10][17][18]。
終戦後から小田急相模原駅周辺の大字座間字北広野、1958年(昭和33年)には新田宿飛地(相模が丘六丁目)に小田急住宅が開発分譲されると当該地域の宅地化の進行・企業誘致による工場の進出により、救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)[注釈 11]、1959年(昭和34年)4月20日にこれらの各大字小字を統合し、行政道路(座間街道)以北を高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した[注釈 12][注釈 13][20][21]。
相模原市は1969年(昭和44年)7月1日に、小田急相模原駅周辺で住居表示を実施した際に大字磯部・大字新戸・大字新磯野の各一部から相模台一丁目〜相模台四丁目の町丁を起立し、翌1970年(昭和45年)7月1日には相模台五丁目〜相模台七丁目の各町丁が起立されたが、このことがきっかけで高座郡座間町大字相模台と相模原市相模台が隣接して併存することとなった[注釈 14]。(南区の地域も参照[24])。
1971年(昭和46年)11月1日に市制施行した座間市が、相模原市に遅れること12年後の1981年(昭和56年)6月1日に大字相模台地区で住居表示を実施した際[25][注釈 15]、先行した相模原市側の相模台一丁目〜七丁目との同名回避のために相模が丘一丁目〜相模が丘六丁目を起立し町丁に改編した。
歴史の時系列と詳細
この地は既に1877年(明治10年)、小田急相模原駅北口付近に中和田新開[注釈 16]が開拓され、1880年(明治13年)には人が住み着いて開墾していたが、1894年(明治27年)になって、中和田新開の座間村域に初めて1名が居を構え入植に加わる[注釈 17]。1901年(明治34年)には開拓者たちは次々と府中道(現・南台五丁目付近)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加わり、新開地は一つの集落として活気をおびて来た[注釈 18]。
1919年(大正8年)3月15日、新開四十年記念碑[注釈 19]建立時の頃には14戸にまでなった中和田新開は府中道(行幸道路旧道)と辰街道[注釈 20]の交差する未開地の中に小さな集落が出来上がり、これが小田急相模原駅北口周辺発展の原点となった[注釈 21]。
1937年(昭和12年)9月30日、東京府東京市牛込区市ヶ谷台より陸軍士官学校が座間の地に移転すると、1938年(昭和13年)から高座郡大野村に、臨時東京第三陸軍病院、陸軍電信第一連隊(東部第八十八部隊、現・上鶴間米軍ハウス)、原町田陸軍病院(後の相模原陸軍病院、戦後は在日米軍医療センター)や、原町田通信学校(正式名称は陸軍通信学校、現・相模女子大学ほか)、原町田兵器学校(正式名称は陸軍兵器学校、現・学校法人麻布獣医学園ほか)が開設された。
[注釈 22]もともと明治初年には原町田を含む南多摩郡はじめ三多摩は、神奈川県管下にあった。明治26年4月1日東京府に編入されたが、それまでは原町田と座間・相模原は同県であったこともあり、その後も軍関係の管轄区分では座間を含む相模原地域は原町田の一部であった[注釈 23]。そのため上鶴間にできた病院を「原町田陸軍病院」、淵野辺にできた憲兵隊を「原町田憲兵分隊」と称し電信電話も町田郵便局の管轄であった。相模が丘の大部分が相模原MAであるのはその名残である[注釈 24][注釈 25]。
大きな転換点となったのは、前述のとおり臨時東京第三陸軍病院[注釈 26]の進出である。1938年(昭和13年)3月1日の開院に合わせ、小田原急行鉄道が、中和田新開を通過していた小田原線上の座間町と大野村の行政境界に相模原駅[27][28][注釈 27][注釈 28]を開業し、同駅と同病院を結ぶ辰街道[注釈 29]周辺が市街化する契機となった[注釈 30]。
新田宿飛地(相模が丘一丁目[29]・五丁目・六丁目)は、他の地域同様、江戸時代末期文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成したが[30]、本村から遠く、通いでの耕作は大変であったので、所有者は割り当てられた土地に植林して松林とした[注釈 31]。小田急線が開通して4年後、1931年(昭和6年)に長野県から移住した人[31]を皮切りに、旧陸軍士官学校ほか軍用地買収[32]が1936年(昭和11年)6月から行われ、建設が始まった1936年(昭和11年)10月26日[33]から1943年(昭和18年)にかけて、新田宿飛地見分塚(相模が丘一丁目三角地帯・五丁目)に本格的に人が住み着いた。東京市三河島から陸軍関係施設の建設に従事した人[34]、神田の青果問屋の番頭だった人[34]、練馬の大地主で漬物屋だった人は陸軍に土地を買収されたため相模が丘に移ってきた[34]。東林間水道新開から移住した人、様々な理由・所縁で相模が丘に移住して来た[35]。皆、昭和十八年(1943年)までにこの地に移住してきたので「十八の会(とわのかい)」という親睦会を作った[36]。戦時中、高座郡旧相模原町当時から座間分・上鶴間分・新戸磯部分の住民は、小田急相模原駅周辺一帯を相模台と呼んでいた[37]。
戦前・戦中・戦後にかけて、相模が丘・広野台・小松原は幸い軍用地の接収を免れて畑の耕作は従来通り続けられた[38]。
終戦直後、東久邇宮首相の「国民皆農主義」の呼びかけもあって、皆が先を争って農業へと回帰することが時代の風潮となった。急ごしらえの「帰農組合」[注釈 32]が日本各地で作られ、耕せるところはどこでも耕そうと、耕作地の拡大に積極的に取り組んだ[注釈 33]。その政策に基づき農業集落として「相模台」とされた[注釈 34][40][41]。
この地は地下の水脈が約25mと深く、その上関東ローム層という火山灰土の不毛な土壌で干害を受けやすかったが、桑栽培には適地であったので主に桑園として利用され、麦・陸稲・甘藷・大根なども栽培した[注釈 35][注釈 36]。戦後の1949年(昭和24年)に県営相模原畑地灌漑事業が着工され、1953年(昭和28年)、畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)に通水を開始[42]したが、相模が丘の元の大字である座間と新田宿は灌漑用水組合に加入しなかったため、用水の恩恵を受けることができなかった[注釈 37][注釈 38]。1955年(昭和30年)に町営水道が完成、1958年(昭和33年)には新田宿飛地(相模が丘六丁目)に小田急住宅が開発分譲され、畑から宅地・準工業地域へと地目変更が急激に進行した。畑地灌漑用水路西幹線は、その役目を終え、1969年度(昭和44年度)の年度末、1970年(昭和45年)3月に通水を終了した[注釈 39]。
年表
- 江戸時代
- 元和年間 : 領主内藤清成は、慶長8年(1603年)、八王子往還を発展させるため、この道筋に内藤家菩提寺宗仲寺を建立し、徳川家康と親しい源栄上人を初代住職に招聘した。慶長13年(1608年)に清成が亡くなったため、その子内藤清次が父清成の遺志を継ぎ、八王子往還付近の開発を更に進展するため、元和年間(1615年~1624年)のはじめに、当時の座間村周辺の集落(長宿・星の谷・皆原・羽根沢など)から農民を移住させ、座間新宿を設けようとした。慶安の頃に至って整備が成ったことから座間村から座間新宿を分村する気運が生まれた[43][44]。
- 正保4年(1647年) : 相模野を入会野として利用していた座間村と両・鶴間村(下鶴間村・上鶴間村中和田分)の間で境界をめぐる争い『夏草騒動』起きる[注釈 40][注釈 41][注釈 42]。
- 寛文2年(1662年) : 領主久世廣之大和守の検地の際から、高座郡座間村は座間新宿の地域を分村し座間宿村と座間入谷村が起立[注釈 43][45]。
- 元禄4年(1691年) : 座間入谷村の村民が、「座間七ヶ村(座間宿村・座間入谷村・栗原村・新田宿村・四ツ谷村・新戸村・磯部村)」入会地秣場(新戸・磯部分の区域である現・相模原市南区相武台・新磯野辺り)」の夏草と冬の「萱」を新戸・磯部二ヶ村の了解なしに刈り取ったことから、座間入谷村対新戸村と磯部村が結束し出入となった。この件について座間四ヶ村の名主や中和田村・谷口村の名主が仲人になって示談にしようとしたが調停不成立で、新戸・磯部両村は老中に訴え裁判となった。翌、元禄5年に老中の申し渡しがあり、座間入谷村名主は始末書を取られ名主他組頭は総辞職した。座間五ヶ村のうち一ヶ村役人の総辞職は後にも先にもこの一件だけである[46]。
- 元禄12年(1699年) : 幕府は「夏草騒動」の教訓を生かし、元禄年間はじめに相模野を10の区画に分け[注釈 44]、区画毎に近隣の村々の共同使用として、正式に入会野の権利を認めることにした。座間地域が所有する芝原(しばあら)が座間野と呼ばれるようになったのはこの頃からで、各区画には、野元(管理権)と呼ばれる入会野を管轄する村を設け入会野の運営に当たらせた[注釈 45][注釈 46]。この座間野で、野元の座間宿村・座間入谷村に対し、新戸村・磯部村が「冬草刈」をめぐり訴訟を起こした事件『冬草騒動』起きる。幕府は新戸村・磯部村の訴えを却下する裁定を下した[48]。
- 享保11年(1726年)11月 : 武蔵国小山村の伝七と与惣左ヱ門という者が座間野を開墾して新たに畑を開きたいと願い出たので、代官日野小左衛門が座間野の検分をし、宿泊所の下溝村名主藤助宅に座間野に関係する各村の代表を集め、意見を聴取したところ、開墾反対の意見であったので開墾は中止されたが、代官日野は座間野(面積400町歩・約400ヘクタール)の検地を行い関係の各村に分割することにした[注釈 47][注釈 48]。
- 嘉永6年(1853年) : 芝原の開墾が始まり、文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成し、座間宿村・座間入谷村・新田宿村・四ツ谷村の各戸に、平等に分割され畑とされ耕作が始まった。不毛な土壌で干害を受けやすかったが、桑栽培には適地であったので桑園として利用されていた[50][注釈 49]。
- 明治
- 昭和(戦前・戦中)
- 1927年(昭和2年)4月1日:小田原急行鉄道小田原線開通。
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)3月1日:小田原急行鉄道小田原線・相模原駅開業[57][注釈 54][注釈 55]。
- 1939年(昭和14年)11月28日:相武台前駅踏切前起点(高座郡座間町座間字大坂台4515番地) ⇔ 江戸街道 ⇔ 小池窪 ⇔ 鶴間街道 ⇔ 下鶴間(旧国道16号・高座郡大和村下鶴間字乙三号2137番地)の道路、県道座間下鶴間線と認定される(路線認定告示で用いられる整理番号142)[注釈 56]。
- 1941年(昭和16年)
- 3月1日:小田原急行鉄道が小田急電鉄と改称[58]。
- 4月29日:この当時、人口8,072人[59][注釈 57]の座間町は大野村、新磯村、上溝町、麻溝村、大沢村、田名村、相原村と合併し、人口48,482人の高座郡相模原町が誕生[60][注釈 58]。座間町の区域は相模原町の一部となる。
- 月日不詳:新田宿飛地新畑(現・相模が丘六丁目、辰街道沿いのマルマン工場がある所)に旧日本海軍の無線電信送信所が完成。高さ40Mの鉄塔3本立つ[61]。1944年(昭和19年)ごろ小松原の住民が当時の県議会議長兼相模原開発同盟会長「岩本信行」に陳情し、同年8月16日この海軍送信所から送電し小松原にはじめて電灯が灯いた[62]。
- 昭和(戦後)
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)月日不詳 : 米軍の軍用道路として相武台新道工事着工[注釈 61][注釈 62]。
- 1948年(昭和23年)
- 9月1日 : 旧座間町域(座間市域)が相模原町から分離独立し、高座郡座間町が再置される[注釈 66]。人口12,032人[69]。
- 11月4日 : 県営相模原畑地灌漑事業計画樹立[70]。
- 1949年(昭和24年)3月 : 県営相模原畑地灌漑事業着工[注釈 67]。
- 1952年(昭和27年)4月28日 : 日本国主権回復[注釈 68]
- 1953年(昭和28年) : 畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)通水開始[注釈 69][注釈 70][注釈 71]。
- 1955年(昭和30年)1月1日 : 座間町営水道給水開始[注釈 72]。
- 1957年(昭和32年)1月:「座間町工場誘致の奨励措置に関する条例」制定[注釈 73]。座間町が企業誘致を開始。
- 1958年(昭和33年) : 新田宿飛地(相模が丘六丁目)に小田急住宅が開発分譲される。
- 1959年(昭和34年)4月20日:当該地域の各大字小字を統合し、行政道路(座間街道)以北を高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した[注釈 74][74]。
- 1960年(昭和35年)6月19日:前年新設された高座郡座間町大字相模台、人口急増に伴い、当該区域における町田電報電話局管内[注釈 75]の電話、東京23区03・川崎04・横浜05・藤沢066・八王子局026・武蔵野三鷹局022・立川局025・調布局024・武蔵府中局0236・青梅局028間、同年7月31日相模原局027-7[注釈 76][75]間でダイヤル自動即時化[76][注釈 77][77]。町田局市外局番0274、市内局番なし[注釈 78]。
- 1962年(昭和37年)4月1日:高座郡座間町立座間第三小学校創立(座間中学校体育館内に併設開校)[80]。
- 1965年(昭和40年)5月30日:座間電報電話局管内[注釈 87]の電話、全国ダイヤル自動即時化[83]。市外局番0462・市内局番51[注釈 88]。
- 1966年(昭和41年)
- 1968年(昭和43年)
- 1969年(昭和44年)10月:座間町の人口が5万人を超える。町の花を「ひまわり」と決定[90]。
- 1971年(昭和46年)11月1日:高座郡座間町、市制施行し座間市となる。人口62,740人[91]。
- 1972年(昭和47年)9月1日:相模台児童館の敷地内に座間市役所相模台出張所(現、相模が丘コミュニティーセンター)開設[92]。
- 1975年(昭和50年)3月:相模台歩道橋竣工[注釈 90]。
- 1976年(昭和51年)4月:座間市立相模が丘小学校開校[93]。
- 1977年(昭和52年)4月:北地区文化センター開設[94]。
- 1979年(昭和54年)4月:座間市立相模中学校開校[95]。
- 1979年(昭和54年)9月17日:座間相模台南郵便局開局。
- 1981年(昭和56年)6月1日:座間市大字相模台、相模が丘と改称し大字を町丁に改編、同時に住居表示を実施して座間市相模が丘一丁目~相模が丘六丁目となる[96]。
- 1982年(昭和57年)7月:座間市立相模が丘プール開設[97]。
- 1983年(昭和58年)4月:座間市消防署北分署開設[98]。
- 1985年(昭和60年)12月24日:座間市の人口10万人を超える[91]。
- 平成
- 1998年(平成10年)11月3日:電話番号逼迫に伴い相模が丘の一部、市外局番(0427地域)が042へ3桁化。(東京23区03・川崎044・横浜045と違い桁ずらし3桁化)。0427-44-xxxx→042-744-xxxx。
- 1999年(平成11年)7月20日:電話番号逼迫に伴い市内の市外局番(0462地域)が046へ3桁化。(東京23区03・川崎044・横浜045と違い桁ずらし3桁化)。0462-51-xxxx→046-251-xxxx。
- 2010年(平成22年)4月1日:相模原市が政令指定都市移行に伴い郵便番号を変更、相模原市一部地域と上3桁「228」を共用していた座間市内も228-00xxから252-00xxに変更。
- 2018年(平成30年)3月16日:イオンモール座間開業。
世帯数と人口
2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
| 丁目 | 世帯数 | 人口 |
|---|---|---|
| 相模が丘一丁目 | 2,644世帯 | 4,529人 |
| 相模が丘二丁目 | 1,928世帯 | 3,478人 |
| 相模が丘三丁目 | 1,622世帯 | 3,033人 |
| 相模が丘四丁目 | 1,906世帯 | 3,520人 |
| 相模が丘五丁目 | 2,655世帯 | 4,822人 |
| 相模が丘六丁目 | 1,728世帯 | 3,820人 |
| 計 | 12,483世帯 | 23,202人 |
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
| 年 | 人口 |
|---|---|
| 1995年(平成7年)[99] | 19,766 |
| 2000年(平成12年)[100] | 22,561 |
| 2005年(平成17年)[101] | 22,646 |
| 2010年(平成22年)[102] | 23,214 |
| 2015年(平成27年)[103] | 23,298 |
| 2020年(令和2年)[104] | 23,880 |
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
| 年 | 世帯数 |
|---|---|
| 1995年(平成7年)[99] | 8,603 |
| 2000年(平成12年)[100] | 10,050 |
| 2005年(平成17年)[101] | 10,165 |
| 2010年(平成22年)[102] | 10,838 |
| 2015年(平成27年)[103] | 11,226 |
| 2020年(令和2年)[104] | 12,183 |
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<2022年(令和4年)12月時点>[105]。
| 丁目 | 番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|---|
| 相模が丘一丁目 | 全域 | 座間市立相模が丘小学校 | 座間市立相模中学校 |
| 相模が丘二丁目 | 全域 | ||
| 相模が丘三丁目 | 全域 | ||
| 相模が丘四丁目 | 全域 | 座間市立相模野小学校 | |
| 相模が丘五丁目 | 全域 | 座間市立相模が丘小学校 | |
| 相模が丘六丁目 | 全域 | 座間市立相模野小学校 |
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[106]。
| 丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
|---|---|---|
| 相模が丘一丁目 | 130事業所 | 1,711人 |
| 相模が丘二丁目 | 73事業所 | 420人 |
| 相模が丘三丁目 | 55事業所 | 291人 |
| 相模が丘四丁目 | 72事業所 | 642人 |
| 相模が丘五丁目 | 151事業所 | 784人 |
| 相模が丘六丁目 | 58事業所 | 1,374人 |
| 計 | 539事業所 | 5,222人 |
事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
| 年 | 事業者数 |
|---|---|
| 2016年(平成28年)[107] | 573 |
| 2021年(令和3年)[106] | 539 |
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
| 年 | 従業員数 |
|---|---|
| 2016年(平成28年)[107] | 5,426 |
| 2021年(令和3年)[106] | 5,222 |
交通
鉄道
町内に鉄道駅はない。
バス
- 神奈川中央交通の路線
- 座間市コミュニティバス(ザマフレンド号)の路線
- Bコース(小松原・病院経由コース)
- Cコース(相模が丘コース)
道路
村富線
難儀した村富線
出典元:『三十周年誌・相武台歴史同好会 発行者:相武台歴史同好会 平成22年12月発行』p26※原文ママ
『村富線は相模原市中心部と南部を繋ぐ初めての道路です。相模原台地の東、境川筋と西、鳩川沿いには街道がありましたが人家のない台地上には東西を結ぶ道はあっても南北を繋ぐ道はありませんでした。県と市は南北を縦断する重要道路として昭和31年9月24日村富相武台線を都市計画道路として決定、告知しました。昭和33年8月1日首都圏整備法による市街地開発地区第1号に指定されました。
一方道路の方はその後地元説明会、物件調査、用地買収等を経てようやく昭和44年工事施工となりましたがそれ以前の昭和42年1月より入居していた相武台団地住民は団地の真中に1日に何万台も車が通る道路が出来ると初めて聞いて驚きました。当然大反対です。交渉は10年の長期にわたりました。4車線を2車線に変更し、遮音壁を設置し、歩道橋を架け、広場を整備する等で昭和56年5月合意しました。その間付近の住民より団地のエゴだと非難もありました。昭和60年3月24日供用開始しました。今では主要幹線道路として活用されています。』
村富線年表
- 1956年(昭和31年)9月24日 - 「村富相武台線」都市計画街路(幅員11m・2車線)として決定・告示[108]。
- 1958年(昭和33年)8月1日 - 相模原市、首都圏整備法に基づく市街地開発区第一号に指定される[109]。
- 1961年(昭和36年)月日不詳 - 新磯野にて神奈川県住宅供給公社による相武台団地建設用地買収始まる[110][注釈 91]。
- 1962年(昭和37年)1月 - 団地用地取得[111]。
- 1964年(昭和39年)7月 - 相武台団地建設着工[112]。
- 1965年(昭和40年)9月3日 - 都市計画街路「村富相武台線」と団地造成との関連を神奈川県が住宅公社と相模原市と協議(ルートの変更、幅員を11m2車線から18m4車線に変更、街路は団地と出来うる限り平面交差を少くする、美観上からグリーンベルト及び植樹を行う。)[113]。
- 1966年(昭和41年)11月30日 - 団地内部、都市計画街路「村富相武台線」団地内部を協議通り造成[114]。都市計画街路を除く団地内街路と行幸道路・行政道路が接続。
- 1966年(昭和41年)12月15日 - 都市計画街路「村富相武台線」計画変更(1965年(昭和40年)9月の協議通りに変更)[115]。
- 1967年(昭和42年)1月17日 - 相武台団地4棟竣工[116][117][118]。
- 1968年(昭和43年)3月30日 - 都市計画街路「村富相武台線」(団地内)事業決定[119]。
- 1968年(昭和43年)3月31日 - 都市計画街路「村富相武台線」(団地内南側)舗装新設160m、配水管工430m敷設[120]。
- 1968年(昭和43年)9月20日 - 相武台団地自治会、「相武台団地内道路村富相武台線の一部設計変更の請願」を行う。昭和43年9月20日受理[121]。
- 1968年(昭和43年)9月24日 - 相武台団地自治会、「相武台団地内道路の設計変更についての請願」を行う。昭和43年9月25日受理[122]。
- 1968年(昭和43年)12月12日 - 上記請願二件「不採択」[123]。
- 1969年(昭和44年)月日不詳 - 村富相武台線団地内4車線で着工。1967年1月より入居していた団地住民が大規模なバイパス反対運動起こす。工事途中中断[124]。
- 1969年(昭和44年)8月31日 - 相武台団地全棟竣工[125][126]。
- 1970年(昭和45年)9月11日 - 相武台団地自治会、「相武台団地内道路の路線変更についての請願」を行う。昭和45年9月14日受理[注釈 92][127]。
- 1971年(昭和46年)3月8日 - 上記請願「不採択」[128]。
- 1971年(昭和46年)9月17日 - 「相武台団地の交通公害についての請願」を行う。昭和46年9月17日受付・受理[129]。
- 1971年(昭和46年)12月7日 - 上記請願「採択」[130]。
- 1976年(昭和51年)3月30日 - 工事中断中の「村富相武台線」、神奈川県道507号相武台相模原線と認定される。神奈川県告示第247号・248号・整理番号139。
- 1981年(昭和56年)5月 - 所轄官庁と住民が合意[注釈 93]。
- 1985年(昭和60年)3月26日 - 村富線全面開通[132][133]。
施設
- 座間市立相模が丘小学校
- 座間市立相模中学校
- 座間市民球場
- 相模台病院
- 座間郵便局
- コジマ×ビックカメラ 座間店
- 相模が丘コミュニティセンター
- 座間市役所 北地区文化センター
- 座間市消防本部 座間市消防署北分署
- 座間市立北地区児童ホーム
