相模が丘

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相模が丘
町丁
北緯35度30分33秒 東経139度25分26秒 / 北緯35.509269度 東経139.423817度 / 35.509269; 139.423817
日本の旗 日本
都道府県 神奈川県の旗 神奈川県
市町村 座間市
人口情報2023年令和5年)8月1日現在[1]
 人口 23,202 人
 世帯数 12,483 世帯
面積[2]
  1.365015691 km²
人口密度 16997.61 人/km²
設置日 当該地域各大字小字を統合・地番整理を実施し 1959年昭和34年)4月20日、高座郡座間町大字相模台起立。<1981年(昭和56年)6月1日座間市相模が丘と町丁に改編し住居表示施行>
郵便番号 252-0001[3]
市外局番 042(相模原MA)(一、二、三丁目の相模が丘仲よし小道さくら百華の道以北と五丁目全域。)[4]
046(厚木MA)(上記以外)[5][6]
ナンバープレート 相模
ポータルアイコン ポータル 日本の町・字
ポータルアイコン ポータル 神奈川県
プロジェクト 日本の町・字
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相模が丘(さがみがおか)は、神奈川県座間市町丁。現行行政地名は、相模が丘一丁目から相模が丘六丁目。住居表示実施済み区域[7]

神奈川県座間市の北部に位置し、小田急小田原線小田急相模原駅を最寄とする。区域は同駅に近いことから、最北部から順次市街化が進行し、1960年代前半までにほぼ宅地化準工業地域化している。元の開墾農地の地割を反映し、街路網自体は直線的である。

大字~町丁への変遷

当区域は元々相模野・座間野・芝原(しばあら)と呼ばれる原野の一部であり、主に座間宿村新田宿村入会地秣場とされていた。それまで人が誰も住んでおらず、江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった[注釈 1][注釈 2][注釈 3]

江戸末期嘉永6年(1853年[注釈 4][注釈 5]にこの入会地が分割され、相模が丘は座間宿村新田宿村四ツ谷村座間入谷村に組み込まれた[9][注釈 6][注釈 7]

地籍は、高座郡座間町の内、

大字座間北広野・字中広野の各小字全域、字南広野・字元広野・字元広野窪各小字の座間街道以北・字元広野窪の農道[11]以北、ほんのわずかな部分の大字座間入谷飛地小松原の座間街道以北[12]、そして新田宿飛地見分塚<小田急線線路境に辰街道[13]・座間市道7号相模原二ツ塚線の三角地帯>(相模が丘一丁目〜四丁目)[14]

辰街道[注釈 8][15]・座間市道7号相模原二ツ塚線を境に大字新田宿飛地見分塚の小田急線線路から江戸街道[注釈 9]まで(相模が丘五丁目)[16]

辰街道・江戸街道・座間市道7号相模原二ツ塚線を境に新田宿飛地見分塚(江戸街道から小田急住宅まで)と新畑全域、大字四ツ谷飛地二ツ塚の座間街道以北(相模が丘六丁目)。

以上の各大字小字・飛地である[注釈 10][17][18]

終戦後から小田急相模原駅周辺の大字座間字北広野、1958年昭和33年)には新田宿飛地(相模が丘六丁目)に小田急住宅が開発分譲されると当該地域の宅地化の進行・企業誘致による工場の進出により、救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)[注釈 11]1959年(昭和34年)4月20日にこれらの各大字小字を統合し、行政道路(座間街道)以北を高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した[注釈 12][注釈 13][20][21]

相模原市1969年(昭和44年)7月1日に、小田急相模原駅周辺で住居表示を実施した際に大字磯部・大字新戸・大字新磯野の各一部から相模台一丁目〜相模台四丁目の町丁を起立し、翌1970年(昭和45年)7月1日には相模台五丁目〜相模台七丁目の各町丁が起立されたが、このことがきっかけで高座郡座間町大字相模台と相模原市相模台が隣接して併存することとなった[注釈 14]。(南区の地域も参照[24])。

1971年(昭和46年)11月1日に市制施行した座間市が、相模原市に遅れること12年後の1981年(昭和56年)6月1日に大字相模台地区で住居表示を実施した際[25][注釈 15]、先行した相模原市側の相模台一丁目〜七丁目との同名回避のために相模が丘一丁目〜相模が丘六丁目を起立し町丁に改編した。

歴史の時系列と詳細

この地は既に1877年明治10年)、小田急相模原駅北口付近に中和田新開[注釈 16]開拓され、1880年(明治13年)には人が住み着いて開墾していたが、1894年(明治27年)になって、中和田新開の座間村域に初めて1名が居を構え入植に加わる[注釈 17]1901年(明治34年)には開拓者たちは次々と府中道(現・南台五丁目付近)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加わり、新開地は一つの集落として活気をおびて来た[注釈 18]

1919年大正8年)3月15日、新開四十年記念碑[注釈 19]建立時の頃には14戸にまでなった中和田新開は府中道(行幸道路旧道)と辰街道[注釈 20]の交差する未開地の中に小さな集落が出来上がり、これが小田急相模原駅北口周辺発展の原点となった[注釈 21]

1937年昭和12年)9月30日、東京府東京市牛込区市ヶ谷台より陸軍士官学校座間の地に移転すると、1938年(昭和13年)から高座郡大野村に、臨時東京第三陸軍病院陸軍電信第一連隊(東部第八十八部隊、現・上鶴間米軍ハウス)、原町田陸軍病院(後の相模原陸軍病院、戦後は在日米軍医療センター)や、原町田通信学校(正式名称は陸軍通信学校、現・相模女子大学ほか)、原町田兵器学校(正式名称は陸軍兵器学校、現・学校法人麻布獣医学園ほか)が開設された。

[注釈 22]もともと明治初年には原町田を含む南多摩郡はじめ三多摩は、神奈川県管下にあった。明治26年4月1日東京府に編入されたが、それまでは原町田と座間・相模原は同県であったこともあり、その後も関係の管轄区分では座間を含む相模原地域は原町田の一部であった[注釈 23]。そのため上鶴間にできた病院を「原町田陸軍病院」、淵野辺にできた憲兵隊を「原町田憲兵分隊」と称し電信電話町田郵便局の管轄であった。相模が丘の大部分が相模原MAであるのはその名残である[注釈 24][注釈 25]

大きな転換点となったのは、前述のとおり臨時東京第三陸軍病院[注釈 26]の進出である。1938年(昭和13年)3月1日の開院に合わせ、小田原急行鉄道が、中和田新開を通過していた小田原線上の座間町大野村の行政境界に相模原駅[27][28][注釈 27][注釈 28]を開業し、同駅と同病院を結ぶ辰街道[注釈 29]周辺が市街化する契機となった[注釈 30]

新田宿飛地(相模が丘一丁目[29]・五丁目・六丁目)は、他の地域同様、江戸時代末期文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成したが[30]本村から遠く、通いでの耕作は大変であったので、所有者は割り当てられた土地に植林して松林とした[注釈 31]。小田急線が開通して4年後、1931年(昭和6年)に長野県から移住した人[31]を皮切りに、旧陸軍士官学校ほか軍用地買収[32]1936年(昭和11年)6月から行われ、建設が始まった1936年(昭和11年)10月26日[33]から1943年(昭和18年)にかけて、新田宿飛地見分塚(相模が丘一丁目三角地帯・五丁目)に本格的に人が住み着いた。東京市三河島から陸軍関係施設の建設に従事した人[34]神田の青果問屋の番頭だった人[34]練馬の大地主で漬物屋だった人は陸軍に土地を買収されたため相模が丘に移ってきた[34]東林間水道新開から移住した人、様々な理由・所縁で相模が丘に移住して来た[35]。皆、昭和十八年(1943年)までにこの地に移住してきたので「十八の会(とわのかい)」という親睦会を作った[36]戦時中、高座郡旧相模原町当時から座間分・上鶴間分・新戸磯部分の住民は、小田急相模原駅周辺一帯を相模台と呼んでいた[37]

戦前戦中戦後にかけて、相模が丘・広野台小松原は幸い軍用地接収を免れて畑の耕作は従来通り続けられた[38]

終戦直後、東久邇宮首相の「国民皆農主義」の呼びかけもあって、皆が先を争って農業へと回帰することが時代の風潮となった。急ごしらえの「帰農組合」[注釈 32]が日本各地で作られ、耕せるところはどこでも耕そうと、耕作地の拡大に積極的に取り組んだ[注釈 33]。その政策に基づき農業集落として「相模台」とされた[注釈 34][40][41]

この地は地下の水脈が約25mと深く、その上関東ローム層という火山灰土の不毛な土壌干害を受けやすかったが、栽培には適地であったので主に桑園として利用され、陸稲甘藷大根なども栽培した[注釈 35][注釈 36]戦後1949年(昭和24年)に県営相模原畑地灌漑事業が着工され、1953年(昭和28年)、畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)に通水を開始[42]したが、相模が丘の元の大字である座間新田宿は灌漑用水組合に加入しなかったため、用水の恩恵を受けることができなかった[注釈 37][注釈 38]1955年(昭和30年)に町営水道が完成、1958年(昭和33年)には新田宿飛地(相模が丘六丁目)に小田急住宅が開発分譲され、から宅地準工業地域へと地目変更が急激に進行した。畑地灌漑用水路西幹線は、その役目を終え、1969年度(昭和44年度)の年度末1970年(昭和45年)3月に通水を終了した[注釈 39]

年表

世帯数と人口

2023年令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目世帯数人口
相模が丘一丁目 2,644世帯 4,529人
相模が丘二丁目 1,928世帯 3,478人
相模が丘三丁目 1,622世帯 3,033人
相模が丘四丁目 1,906世帯 3,520人
相模が丘五丁目 2,655世帯 4,822人
相模が丘六丁目 1,728世帯 3,820人
12,483世帯 23,202人

人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

人口推移
人口
1995年平成7年)[99]
19,766
2000年(平成12年)[100]
22,561
2005年(平成17年)[101]
22,646
2010年(平成22年)[102]
23,214
2015年(平成27年)[103]
23,298
2020年令和2年)[104]
23,880

世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。

世帯数推移
世帯数
1995年平成7年)[99]
8,603
2000年(平成12年)[100]
10,050
2005年(平成17年)[101]
10,165
2010年(平成22年)[102]
10,838
2015年(平成27年)[103]
11,226
2020年令和2年)[104]
12,183

学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる<2022年令和4年)12月時点>[105]

丁目番・番地等小学校中学校
相模が丘一丁目全域座間市立相模が丘小学校座間市立相模中学校
相模が丘二丁目全域
相模が丘三丁目全域
相模が丘四丁目全域座間市立相模野小学校
相模が丘五丁目全域座間市立相模が丘小学校
相模が丘六丁目全域座間市立相模野小学校

事業所

2021年令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[106]

丁目事業所数従業員数
相模が丘一丁目 130事業所 1,711人
相模が丘二丁目 73事業所 420人
相模が丘三丁目 55事業所 291人
相模が丘四丁目 72事業所 642人
相模が丘五丁目 151事業所 784人
相模が丘六丁目 58事業所 1,374人
539事業所 5,222人

事業者数の変遷

経済センサスによる事業所数の推移。

事業者数推移
事業者数
2016年平成28年)[107]
573
2021年令和3年)[106]
539

従業員数の変遷

経済センサスによる従業員数の推移。

従業員数推移
従業員数
2016年平成28年)[107]
5,426
2021年令和3年)[106]
5,222

交通

鉄道

町内に鉄道駅はない。

バス

道路

村富線

難儀した村富線

出典元:『三十周年誌・相武台歴史同好会 発行者:相武台歴史同好会 平成22年12月発行』p26※原文ママ

『村富線は相模原市中心部と南部を繋ぐ初めての道路です。相模原台地の東、境川筋と西、鳩川沿いには街道がありましたが人家のない台地上には東西を結ぶ道はあっても南北を繋ぐ道はありませんでした。県と市は南北を縦断する重要道路として昭和31年9月24日村富相武台線を都市計画道路として決定、告知しました。昭和33年8月1日首都圏整備法による市街地開発地区第1号に指定されました。

一方道路の方はその後地元説明会、物件調査、用地買収等を経てようやく昭和44年工事施工となりましたがそれ以前の昭和42年1月より入居していた相武台団地住民は団地の真中に1日に何万台も車が通る道路が出来ると初めて聞いて驚きました。当然大反対です。交渉は10年の長期にわたりました。4車線を2車線に変更し、遮音壁を設置し、歩道橋を架け、広場を整備する等で昭和56年5月合意しました。その間付近の住民より団地のエゴだと非難もありました。昭和60年3月24日供用開始しました。今では主要幹線道路として活用されています。』

村富線年表
  • 1956年昭和31年)9月24日 - 「村富相武台線」都市計画街路(幅員11m・2車線)として決定・告示[108]
  • 1958年(昭和33年)8月1日 - 相模原市首都圏整備法に基づく市街地開発区第一号に指定される[109]
  • 1961年(昭和36年)月日不詳 - 新磯野にて神奈川県住宅供給公社による相武台団地建設用地買収始まる[110][注釈 91]
  • 1962年(昭和37年)1月 - 団地用地取得[111]
  • 1964年(昭和39年)7月 - 相武台団地建設着工[112]。 
  • 1965年(昭和40年)9月3日 - 都市計画街路「村富相武台線」と団地造成との関連を神奈川県住宅公社と相模原市と協議(ルートの変更、幅員を11m2車線から18m4車線に変更、街路は団地と出来うる限り平面交差を少くする、美観上からグリーンベルト及び植樹を行う。)[113]
  • 1966年(昭和41年)11月30日 - 団地内部、都市計画街路「村富相武台線」団地内部を協議通り造成[114]。都市計画街路を除く団地内街路と行幸道路行政道路が接続。
  • 1966年(昭和41年)12月15日 - 都市計画街路「村富相武台線」計画変更(1965年(昭和40年)9月の協議通りに変更)[115]
  • 1967年(昭和42年)1月17日 - 相武台団地4棟竣工[116][117][118]
  • 1968年(昭和43年)3月30日 - 都市計画街路「村富相武台線」(団地内)事業決定[119]
  • 1968年(昭和43年)3月31日 - 都市計画街路「村富相武台線」(団地内南側)舗装新設160m、配水管工430m敷設[120]
  • 1968年(昭和43年)9月20日 - 相武台団地自治会、「相武台団地内道路村富相武台線の一部設計変更の請願」を行う。昭和43年9月20日受理[121]
  • 1968年(昭和43年)9月24日 - 相武台団地自治会、「相武台団地内道路の設計変更についての請願」を行う。昭和43年9月25日受理[122]
  • 1968年(昭和43年)12月12日 - 上記請願二件「不採択」[123]
  • 1969年(昭和44年)月日不詳 - 村富相武台線団地内4車線で着工。1967年1月より入居していた団地住民が大規模なバイパス反対運動起こす。工事途中中断[124]
  • 1969年(昭和44年)8月31日 - 相武台団地全棟竣工[125][126]
  • 1970年(昭和45年)9月11日 - 相武台団地自治会、「相武台団地内道路の路線変更についての請願」を行う。昭和45年9月14日受理[注釈 92][127]
  • 1971年(昭和46年)3月8日 - 上記請願「不採択」[128]
  • 1971年(昭和46年)9月17日 - 「相武台団地の交通公害についての請願」を行う。昭和46年9月17日受付・受理[129]
  • 1971年(昭和46年)12月7日 - 上記請願「採択」[130]
  • 1976年(昭和51年)3月30日 - 工事中断中の「村富相武台線」、神奈川県道507号相武台相模原線と認定される。神奈川県告示第247号・248号・整理番号139。
  • 1981年(昭和56年)5月 - 所轄官庁と住民が合意[注釈 93]
  • 1985年(昭和60年)3月26日 - 村富線全面開通[132][133]

施設

総本山別院寺院

その他

日本郵便

参考文献

脚注

関連項目

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