相武台団地

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相武台団地
町丁
北緯35度30分42秒 東経139度24分35秒 / 北緯35.511581度 東経139.409717度 / 35.511581; 139.409717
日本の旗 日本
都道府県 神奈川県の旗 神奈川県
市町村 相模原市
行政区 南区
地区 相武台地区
人口情報2020年令和2年)10月1日現在[1]
 人口 4,267 人
 世帯数 2,404 世帯
面積[2]
  0.299704805 km²
人口密度 14237.34 人/km²
設置日 1969年昭和44年)7月1日
郵便番号 252-0323[3]
市外局番 046(厚木MA[4]
ナンバープレート 相模
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相武台団地(そうぶだいだんち)は、神奈川県相模原市南区町丁。現行行政地名は相武台団地一丁目から相武台団地二丁目。住居表示実施済区域[5]

相模原市南区の南西部に位置している。町内の大部分を神奈川県住宅供給公社が分譲した相武台団地(4階建て)、神奈川県住宅供給公社が賃貸している相武台団地(5階建て)【合わせて相武台団地という】が占めている。南部には相模原市立相武台小学校、相武台中央幼稚園、相武台新日本こども園などがある。

歴史

以下、沿革節の主要な出典は<神奈川県住宅供給公社公式サイト[6]>・<『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年(2006年)11月1日発行>・<『郷土史としての米軍キャンプ座間』涌田佑/著 平成21年(2009年)11月1日発行>・<『三十周年誌・相武台歴史同好会 発行者:相武台歴史同好会 平成22年(2010年)12月発行』>参照。

元々この地は高座郡新磯村大字新戸と大字磯部であり、1937年昭和12年)に陸軍士官学校座間への移転に合わせて、1936年(昭和11年)6月より新磯村から北隣の麻溝村にかけての台地上の土地の大部分が陸軍に買収され、当該地域全域が士官学校の相武台練兵場・演習場となった[7][注釈 1]

陸軍に演習場として土地を買収された新磯村・麻溝村の失地耕作者の対応として麻溝村東端付近一帯に、昭和11年(1936年)12月認可の「芝野耕地整理組合」を設立。しかし面積は失地地積の六分の一に過ぎず、さらに昭和12年(1937年)12月知事の認可を得て「芝原耕地整理組合」を設立した。昭和15年(1940年)3月建立の記念碑が相模原公園体育館駐車場、交番の近くに移設。記念碑裏面には当時の関係者77名の名が刻まれている。尚、麻溝村失地耕作者の内30名は陸軍士官学校その他に就職した[8][注釈 2]

1941年(昭和16年)4月29日、新磯村は、麻溝村大野村座間町上溝町大沢村田名村相原村と合併し、人口48,482人[10]の高座郡相模原町が誕生したが、1948年(昭和23年)9月1日に、旧座間町域(座間市域)が相模原町から分離独立した(人口12,032人[11])。相模原町は残りの区域で、1954年(昭和29年)11月20日市制施行して人口8万0,374人[12]相模原市が発足した。

終戦直後の1945年(昭和20年)9月[13]、相武台練兵場・演習場[注釈 3]は払下げられ、相武台下駅付近の座間の各所[注釈 4][14]に居住していた旧士官学校の将校・陸士生が、この払下げ地を開拓[注釈 5]1947年(昭和22年)12月15日農業協同組合法が施行され、翌1948年(昭和23年)6月1日[16]『相武台下開拓農業協同組合』[注釈 6]を設立。


同時期、東久邇宮首相の「国民皆農主義」の呼びかけもあって、皆が先を争って農業へと回帰することが時代の風潮となった。急ごしらえの「帰農組合」が日本各地で作られ、耕せるところはどこでも耕そうと、耕作地の拡大に積極的に取り組んだ[注釈 7]。その政策に基づき農業集落として、相武台団地含む新磯野・相模原市相武台三丁目・相模台三丁目~七丁目は一括りに「新磯台帰農」、相武台一丁目・二丁目は「相武台前」、相模原市相模台一丁目・二丁目は「新興帰農」とされた[注釈 8][17][18]

1951年(昭和26年)1月、旧陸軍士官学校相武台練兵場であった大字新戸と大字磯部の各一部を統合し大字新磯野を起立、同時に地番整理を実施した[19]

1961年(昭和36年)、当該地域に神奈川県住宅供給公社が相武台団地建設予定地の用地買収を開始、1962年(昭和37年)1月 団地用地取得[20]1964年(昭和39年)7月着工[21][注釈 9]1967年(昭和42年)1月17日4棟竣工[22]1969年(昭和44年)8月31日全棟竣工[23][24]

1969年(昭和44年)7月1日、大字新磯野より相武台団地一丁目・二丁目が起立、同時に住居表示実施[25]。(南区の地域も参照)。

年表

世帯数と人口

2020年令和2年)10月1日現在(国勢調査)の世帯数と人口(総務省調べ)は以下の通りである[1]

丁目世帯数人口
相武台団地一丁目 1,319世帯 2,273人
相武台団地二丁目 1,085世帯 1,994人
2,404世帯 4,267人

人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

人口推移
人口
1995年平成7年)[53]
6,693
2000年(平成12年)[54]
5,934
2005年(平成17年)[55]
5,336
2010年(平成22年)[56]
4,867
2015年(平成27年)[57]
4,429
2020年令和2年)[1]
4,267

世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。

世帯数推移
世帯数
1995年平成7年)[53]
2,374
2000年(平成12年)[54]
2,358
2005年(平成17年)[55]
2,344
2010年(平成22年)[56]
2,318
2015年(平成27年)[57]
2,293
2020年令和2年)[1]
2,404

学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2023年5月時点)[58]

丁目番・番地等小学校中学校
相武台団地一丁目4〜5番相模原市立相武台小学校相模原市立若草中学校
1番、6〜7番相模原市立もえぎ台小学校
相武台団地二丁目1番、7〜8番相模原市立相武台中学校
2〜3番、5〜6番相模原市立相武台小学校

事業所

2021年令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[59]

丁目事業所数従業員数
相武台団地一丁目 4事業所 38人
相武台団地二丁目 23事業所 216人
27事業所 254人

事業者数の変遷

経済センサスによる事業所数の推移。

事業者数推移
事業者数
2016年平成28年)[60]
18
2021年令和3年)[59]
27

従業員数の変遷

経済センサスによる従業員数の推移。

従業員数推移
従業員数
2016年平成28年)[60]
145
2021年令和3年)[59]
254

交通

道路

難儀した村富線

出典元:『三十周年誌・相武台歴史同好会 発行者:相武台歴史同好会 平成22年12月発行』p26※原文ママ

『村富線は相模原市中心部と南部を繋ぐ初めての道路です。相模原台地の東、境川筋と西、鳩川沿いには街道がありましたが人家のない台地上には東西を結ぶ道はあっても南北を繋ぐ道はありませんでした。県と市は南北を縦断する重要道路として昭和31年9月24日村富相武台線を都市計画道路として決定、告知しました。昭和33年8月1日首都圏整備法による市街地開発地区第1号に指定されました。 一方道路の方はその後地元説明会、物件調査、用地買収等を経てようやく昭和44年工事施工となりましたがそれ以前の昭和42年1月より入居していた相武台団地住民は団地の真中に1日に何万台も車が通る道路が出来ると初めて聞いて驚きました。当然大反対です。交渉は10年の長期にわたりました。4車線を2車線に変更し、遮音壁を設置し、歩道橋を架け、広場を整備する等で昭和56年5月合意しました。その間付近の住民より団地のエゴだと非難もありました。昭和60年3月24日供用開始しました。今では主要幹線道路として活用されています。』

村富線年表

  • 1956年昭和31年)9月24日 - 「村富相武台線」都市計画街路(幅員11m・2車線)として決定・告示[61]
  • 1958年(昭和33年)8月1日 - 相模原市、首都圏整備法に基づく市街地開発区第一号に指定される[62]
  • 1965年(昭和40年)9月3日 - 都市計画街路「村富相武台線」と団地造成との関連を住宅公社と相模原市と協議(ルートの変更、幅員を11m2車線から18m4車線に変更、街路は団地と出来うる限り平面交差を少くする、美観上からグリーンベルト及び植樹を行う。)[63]
  • 1966年(昭和41年)11月30日 - 都市計画街路「村富相武台線」団地内部を協議通り造成[64]。都市計画街路を除く団地内街路と行幸道路行政道路が接続。
  • 1966年(昭和41年)12月15日 - 都市計画街路「村富相武台線」計画変更(1965年9月の協議通りに変更)[65]
  • 1968年(昭和43年)3月30日 - 都市計画街路「村富相武台線」(団地内)事業決定[66]
  • 1968年(昭和43年)3月31日 - 都市計画街路「村富相武台線」(団地内南側)舗装新設160m、配水管工430m敷設[67]
  • 1968年(昭和43年)9月20日 - 相武台団地自治会、「相武台団地内道路村富相武台線の一部設計変更の請願」を行う。昭和43年9月20日受理[68]
  • 1968年(昭和43年)9月24日 - 相武台団地自治会、「相武台団地内道路の設計変更についての請願」を行う。昭和43年9月25日受理[69]
  • 1968年(昭和43年)12月12日 - 上記請願二件「不採択」[70]
  • 1969年(昭和44年)月日不詳 - 村富相武台線団地内4車線で着工。1967年1月より入居していた団地住民が大規模なバイパス反対運動起こす。工事途中中断[71]
  • 1970年(昭和45年)9月11日 - 相武台団地自治会、「相武台団地内道路の路線変更についての請願」を行う。昭和45年9月14日受理[注釈 19][72]
  • 1971年(昭和46年)3月8日 - 上記請願「不採択」[73]
  • 1971年(昭和46年)9月17日 - 「相武台団地の交通公害についての請願」を行う。昭和46年9月17日受付・受理[74]
  • 1971年(昭和46年)12月7日 - 上記請願「採択」[75]
  • 1976年(昭和51年)3月30日 - 工事中断中の「村富相武台線」、神奈川県道507号相武台相模原線と認定される。神奈川県告示第247号・整理番号139。
  • 1981年(昭和56年)5月 - 所轄官庁と住民が合意[注釈 20]
  • 1985年(昭和60年)3月26日 - 村富線全面開通[77][78]

施設

その他

日本郵便

参考文献

脚注

関連項目

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