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桂小春団治

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桂 小春団治(かつら こはるだんじ)は、上方落語名跡。本来の表記は「小春團治」である。当代は3代目。


本名林 龍男(戸籍上は「竜男」)
別名花柳芳兵衛
山村若太津
生年月日1904年10月20日
没年月日 (1974-08-15) 1974年8月15日(69歳没)
概要 本名, 別名 ...
初代 かつら 春團はるだん
本名 林 龍男(戸籍上は「竜男」)
別名 花柳芳兵衛
山村若太津
生年月日 1904年10月20日
没年月日 (1974-08-15) 1974年8月15日(69歳没)
出身地 日本の旗 日本・大阪
師匠 桂團丸
4代目笑福亭松鶴
初代橘ノ圓
三遊亭圓子
初代桂春団治
4代目柳家小さん
名跡 1. 立花家小圓丸(1909年 - 1912年)
2. 笑福亭児鶴(1912年 - 1916年)
3. 橘ノ次郎(1916年)
4. 三遊亭子遊(1916年 - 1918年)
5. 山村若太津(1918年 - 1921年)
6. 初代桂小春団治(1921年 - 1934年)
7. 林龍男(1934年 - 1936年)
8. 桃源亭さん生(1936年 - 1974年)
活動期間 1909年 - 1974年
活動内容 新作落語
芝居噺
花柳流舞踊家
家族 桂団丸(父)
所属 互楽派
寿々女会
桂派
新桂派
浪花三友派
円頂派
吉本興業
落語芸術協会
吉本興業
東宝名人会
関西舞踊協会
主な作品
『円タク』
『禁酒運動』
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初代 桂 小春団治(かつら こはるだんじ、1904年明治37年)10月20日 - 1974年昭和49年)8月15日[1])は、明治から昭和戦前期にかけての上方落語の落語家。後に舞踊家として花柳 芳兵衛(はなやぎ よしべえ)を名乗る。本名: 林 龍男(ただし戸籍上は「竜男」[1][注釈 1]

経歴

1904年10月20日、大阪府大阪市西区九条に生まれる[1]

父は初代橘ノ圓門下の立花(橘)家圓(円)丸(後の桂団丸)で[1][3][4][注釈 2]、非常に艶福家であった。母に関しては、生まれてすぐに家を出て行ったため[6]詳しいことは知らされなかった。名前すら記憶にないという。また育ての親も度々変わった。[要出典]1903年3月生まれの母不明の兄がいたが、生後約2週間で死去した[6]1906年[要出典]、父の内縁の妻の田中タツが育ての親になる[7]。タツについて自身は「松島遊郭の引き子(客引)」と記し、富士正晴芸妓であったと推測する[7]。龍男という名前は、3代目桂米朝辰年生まれであることにちなむとし[5]生まれ付き未熟児だったために、のように天高く大きく育ってほしいという意味ともいう[要出典]。富士正晴によると、実父母からは出生届が出されず[6]、誕生から3年あまりのちの1908年2月20日に田中タツが使いをやって、彼女の実家のあった大阪府泉北郡信太村の役場に届けられたという[7]

生まれて間もないころから楽屋に乳母もらいで出入りしていたとされ[6]1909年父の門下となり[要出典]子役の落語家として立花家小円丸を名乗り[8]互楽派の松島文芸館で小噺を語って初高座[1]1911年本田尋常小学校(現在の大阪市立本田小学校)分校に入学し、高座を休演した[9]1912年、2年のときに分校から本校に転校[9]。5月、寿々女会結成に際し父とともに移籍し[3]翌1913年に[要出典]4代目笑福亭松鶴門下となり、笑福亭児鶴を名乗る[注釈 3]。同年8月、学校の夏休みの間、神戸新開地の栄館や淡路洲本の弁天座などに出演、遠くは中国にも渡った[9][10][11]同年末[要出典]、再び立花家小円丸で復帰するが[3]1915年3月に父の認知により父の戸籍に移り、本名が林竜男となった[10]。当時父は田中タツと別れて、新たな内縁の妻・武部光と京都の川端通りで同居しており、転籍に先立つ同年1月より新京極の大正座に父とともに出演、所属は京桂派になった[10]。秋には神戸・千代の座に出演[9]1916年、千代の座で大師匠の初代橘ノ円門下に移り、橘ノ次郎を名乗る[9]。8月、大阪の新桂派(のちの大八会)に入る[9]。神戸の落語家芝居に出演し、『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」の玄番、『仮名手本忠臣蔵』の「落人」の伴内を演じ、歌舞伎の魅力に目覚める(のちに芝居噺を習得する要因の一つにもなった)[要出典]。同年末に浪花三友派に入り三遊亭圓子門下となり、三遊亭子遊と改名[9]。芝居噺を本格的に学ぼうと、1917年初代桂文我に芝居噺本能寺』『綱七』『昆布巻芝居』など[要出典]を付けてもらい、圓子の妹には舞踊を習う[9]。8月、上京して浅草の東京睦会の小屋に1か月出演した[9]1918年、秋ごろから本格的に舞踊の修行を積み、山村流の山村若子(後の2代目山村舞扇斎)に師事し、山村若太津を名乗った(それに先立ち北新地の永楽館の女将から踊りを罵倒されたと手記にある)[9]。同年12月24日に継母の武部光が死去し、父は堺の芸妓栄吉こと吉田うのを内縁の妻とした[9]

1920年12月、2代目三遊亭圓馬の一座(円頂派)に入って北陸地方を巡業した[12]。帰阪後に、浪花三友派の残党との旅巡業から戻ってきた初代桂春団治に入門した[12]。この入門は吉田うのの斡旋による[12]1921年1月、父とともに吉本興業花月連に入り、父は団丸を、自身は小春団治を名乗る[12]1922年、名古屋の吉本の小屋・七宝館に出演[12]。帰阪後、正式に春団治の内弟子生活を始める[12]。11月、横浜花月亭に出演[13]1923年12月、父・団丸が中風で倒れ、そのまま引退[13]1926年、若手の落語研究会・勉強会「花月ピクニック」に抜擢される[14]。同年、最初の新作落語『夜店行進曲』を創作する[15][1]。この演題は当時の流行歌『道頓堀行進曲』をもじったものだった[16]

1927年、堀江の井村すみゑと結婚(婚姻届は出さなかった)[14]。富士正晴によると、子ども(後述)ができたために連れ添ったが、「本来そんなに好きな女ではなかったのだそうだ」という[17]。3月、新作落語『禁酒運動(禁酒)』を発表[14]。この演目は救世軍の禁酒運動に想を得たもので[16]、半年ほどの間はどこの寄席でも『禁酒運動』を頼まれて他の演目は演じられなかったという[15][注釈 4]。7月、実子・好良が誕生[14]1928年正岡容の紹介で『サンデー毎日』編集長の渡辺均を紹介され、新作落語を執筆、以降定期的に掲載された[14]。4月、妻が死去[14]。5月、横浜の小屋に出演中、実子・好良死去[18]。10月、南地花月で初の独演会を開催[17]。自身の回想では、立て続けに発表した時事を題材にした新作落語(『廃娼論』『野球狂時代』)がヒットしたことで独演会につながったという[16]1929年4月に上京し落語芸術協会の世話になる[17]1930年4月、ポリドールより『禁酒運動』を録音[17]。5月、山村流の名取となり、山村若太津を名乗る[17]1932年12月、小春団治ファンであった芸妓・遠藤ルイ子と結婚する(法律上の夫婦になったのは7年あまり後の1940年4月)[17]。新作落語の創作は続き、爆弾三勇士も同題の落語にしている[1]

所属していた吉本興業が、落語から漫才に路線を変更したことに反発した小春団治は、1933年10月に内容証明郵便で休演を通告したのち、借りていた金も返済して吉本脱退を図る[19]。吉本側は激怒したが、11月21日に「桃源座」を結成した[19]。「桃源座」は1934年1月から4月まで、化粧品会社がスポンサーとなって、中国、東海などを巡業する[19]。しかし5月には単身で上京し、神田立花亭に出演した帰りに、吉本興業の差し向けた暴漢2名の襲撃を受けた[19]。こうした経緯から富士正晴は「桃源座をもちこたえ得なかったのか」と記し[19]、3代目桂米朝は「種々の妨害が入ってうまくいかなかった」とする[20]。6月に大阪から東京荒川区日暮里に転居した[19]。9月、師匠・春団治の病気急変を、春団治の実兄・2代目桂玉團治の手紙で知り、急いで帰阪[19]。10月、師匠・春団治が没したが、吉本との関係で葬儀には出席できなかった[19][注釈 5]。12月に、所属していた東京落語家協会を脱退した[19]

1935年2月、「林龍男」名義で東宝名人会に加入した[2]。12月には好事家、文壇、評論家の後援により、芝田村町の飛行会館で舞踊発表会を開く[21]。年末に出した挨拶状で「桃源亭さん生」への改名を発表した[21]。3代目桂米朝はこの当時は4代目柳家小さんのところに身を寄せたとする[20]1936年4月、名古屋放送局で『禁酒運動』が初めて放送される[21]。9月に徳川夢声一座の九州巡業に同行し、帰路に立ち寄った大阪で、舞踏家への転身と帰阪を決意した[22]。10月に正式に帰阪して、若太津の名跡返上と花柳流4世花柳芳次郎への入門をおこなう[23]。11月、吉本と和解して、林芳男を名乗る[1]。これは芳次郎の斡旋によるもので、舞踊家としての復帰だった[23]。舞踊家に転じるに当たり、師の芳次郎からは「今後一切、落語の世界には関係しませんという厳しい制約をさせられたそう」だと、3代目桂米朝は記している[24]

1939年3月、花柳流の名取り試験を受けて、花柳芳兵衛の名乗りを許された[23]。10月、正式に吉本を退社する[23]。自身はこれを「円満退社」と記している[23][25]1940年8月、大阪市内で一門の舞踊の会(浴衣会)に出演[26]1941年4月に関西舞踊協会が設立されると、理事に就任した[26]太平洋戦争中には徴用されたり、空襲で自宅を焼失したりしたという[27][注釈 6]。戦後にNHK大阪放送局ラジオが、落語家になる前の3代目桂米朝が書いた新作落語『莨(たばこ)道成寺』を正岡容の推薦で放送することになった際、「林龍男」の名義で口演している[29]

1955年前後にNHKに芝居噺を記録保存した[24]。この際にも前出の師との誓約に則る形で放送や発表を厳禁するよう局に依頼したという[24]。他の放送局でも保存のために実演したという[1]。また、毎日放送素人名人会』の審査員を務めた[30]

1957年12月、子女をもうけることなく妻が死去[30]1959年12月、出稽古を繰り返していた広島県で知り合った弟子と再々婚する[30]1960年7月に長男、1969年5月には次男が誕生した[30]

1960年、川柳作家の岸本水府が、芸道五十年記念として「もちかえた扇どちらも宝もの」の句を贈っている。これは、人気落語家から舞踊家に転向し一家をなした経歴を称賛したものである。還暦時には舞踊の会を開催[要出典]

1971年12月には読売テレビ主催の『YTVサロン』「上方寄席シリーズ・上方の寄席囃子、寄席の踊り」で3代目桂米朝と対談をおこなった[31][注釈 7]

1974年8月15日に死去した 享年71(満69歳没)[1]

妻は2010年8月時点では存命で、当代3代目小春団治とも交流があった[要出典]

落語について

新作落語のSPレコードを残している[1]。また、芝居噺『昆布巻芝居』の録音が現存しており、4代目桂文我はこの録音テープをもとに、途絶えていた同演目にアレンジを加えて演じている[33]。該当の録音テープかどうかは不明だが、1954年に関西学院大学古典芸能研究部の中心メンバーだった嘉納吉郎(のちに演芸評論家)の卒業を機に、NHK大阪放送局のスタジオで『昆布巻芝居』を録音したことが、当時の『朝日新聞』(1954年5月28日)に掲載されている[34]

人物

初代春団治からは可愛がられ、内弟子を始めた際も自宅の2階の部屋が小春団治用に改装されるほどであった[13]。ある夏に春団治と京都の鴨川べりで芸者と連れだっていたとき、師匠から「俺が川へ着物のまま飛び込むよってに、お前も後からモシ何処へ行きなはんね、と云うて俺の後から川へ飛び込め」と言われて師匠とともに実行し、芸者が驚いたのを見た春団治は「驚きよったやろオモロかった」と笑ったが「夏とは云えどもその後の気もちの悪いことは話にならん」と後年回想した[35]

趣味は桃太郎の人形集め。「桃源座」も「桃源亭さん生」もこれに由来。[要出典]

2代目露の五郎兵衛が2代目小春団治を襲名する際、初代であった花柳芳兵衛に挨拶をした所、「この名前は何かと損する名前やさかい、わたしとあんたで"止め名"にしまひょ」と言われ、面食らったという。事実、2代目も後年所属する吉本興業側から、「小」の字が気に入らない、と改名を促されることになる。それでも1999年、3代目が誕生した。[要出典]

舞踊家「山村若太津」の名前は、2026年5月に桂吉坊が襲名している[36]

著書

  • 『林芳男新作落語集』成象堂、1939年11月[23]
  • 『鹿のかげ筆』白川書院、1977年。※花柳芳兵衛として

先代小春団治

月亭春松編『落語系圖』によれば、上記の初代小春団治は2代目とされ、それ以前に初代のいたことが記されている[37]。この「初代」は、桂小文字(1895年 - 1926年、享年31)の前名とされるが[38]結局大成しなかったため、師匠・春団治と同じく、2代目が初代と呼ばれることになったらしい。[要出典]

脚注

参考文献

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