楠木右馬頭
南北朝時代、南朝および後南朝の武将。南北朝合一時の南朝方の総大将。楠木氏の当主楠木正儀の嫡男。従五位上・右馬頭。贈正四位。
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生涯
楠木右馬頭

歴史上における楠木右馬頭という人物については、南北朝時代が終結する2年前の元中7年/明徳元年(1390年)4月4日に、南朝の幹部が和泉国(大阪府南西部)の某地の所領を越後守という人物に引き渡すよう命じた文書の宛所(宛先)として名が残る程度で、それ以外のことは正確には不明である[2]。
この文書は、山中信古が南朝関係の史料を集めた『南狩遺文』(1870年)に翻刻・収録されている[3]。
『南狩遺文』によると、「伊都郡相賀荘橋本町土屋藤九郎蔵」とあり、和歌山県橋本市西部の土屋藤九郎という人物が所蔵していた文書という[3]。『南狩遺文』の「土屋文書」版は、『史料稿本』(東京大学史料編纂所『大日本史料』の草稿)[4]や、昭和時代初期の南北朝時代史研究者の藤田精一[5]も孫引きしている。
ところが、理由不明だが、「二見文書」にも〔宮内少輔某・伊予守某連署施行状〕という上記の文書とほぼ同内容のものが残る。この文は遅くとも1919年に中村直勝が犬飼福資という人物が所蔵する文書として引用している[6]。『南狩遺文』の「土屋文書」版とは違い、こちらは『五條市史 上巻』(1958年)[7]で原文書の写真が撮られている。
和泉国召次領朝用分事任今年後三月廿四日綸旨可被沙汰居二見越後守於当所之由所候也仍執達如件
元中七年四月四日
伊予守(花押)
宮内少輔(花押)
楠木右馬頭殿
「土屋文書」版と違うのは、「土屋越後守」が「二見越後守」になっているのと、沙汰付を命じた人物が「伊予守」に加えて「宮内少輔」という人物も連署している。中村や21世紀前半の研究者の生駒孝臣はこちらの「二見文書」版を利用しているが、なぜほぼ同じ文書が2種類あるのかについては説明していない[6][2]。
この文書の解釈として、中村はこの時までに楠木氏棟梁の楠木正儀(楠木正成の三男)が死没して息子の正勝が右馬頭となり、棟梁として一族を率いていたのだろうとしている[6]。
藤田は、右馬頭の正体は系図類によれば正儀の子の正勝・正元・正秀のどれかだろうとし、どちらかといえば正勝説を支持している[5]。その一方で、正勝・正元・正秀のいずれの名も同時代の確かな史料には現れないという疑問点についても指摘している[5]。
生駒は、楠木右馬頭を楠木正勝と同一人物とみなすことを強く否定している[2]。ただし、生駒の文脈での「正勝」とは、正儀嫡子の諱が正勝だったことと、後世この「正勝」に付与された伝承群のこと(畠山基国と千早城を争ったなど)と思われる。楠木右馬頭と正儀の関係については、「もし、正直が楠木正儀の息子だったとすれば、この『楠木右馬頭』を正直に比定できるかもしれないが(下略)」と述べている[2](書式上、原文の括弧を二重括弧に変更。楠木正直については後節)。いいかえれば、右馬頭が正儀の息子であるということ自体はある程度有力視していると思われる。なお、生駒は、正儀の没年に関しても確実な記録がないとして、元中3年/至徳3年(1386年)以降なのが確実である以外は不詳としている[8]。
『花営三代記』
南朝総大将で和平派重鎮の楠木正儀は、主戦派の長慶天皇との不和から室町幕府方に転向していた時期がある[9]。同族の和田正武をはじめとする楠木党の有力武将の大半は正儀に従わず、南朝に留まった[9]。
しかし、楠木党の武将の中には一定数だが、正儀に従った者もいた[10]。『花営三代記』康暦2年(1380年)12月25日条を見ると、将軍・足利義満の拝賀儀式に、管領の斯波義将らと共に参列した幕府の武将に「楠木刑部少輔正直」という人物がいる[10]。生駒孝臣は「正直」の読みを「まさなお」としている[10]。
生駒は、伝統的に正儀の嫡子とされる楠木正勝の実在性について強く疑問視しており、そのかわり、この正直という人物が歴史上における正儀の息子の可能性もあるのではないか、としている[11]。一方で、正直説も確証がないため、結局は保留とせざるを得ないとし、積極的な肯定もしない[11]。
なお、臨済宗の禅僧・惟肖得巌(1360–1437年)は、正直という人物が橋本正督の反乱(1378–1380年)に参戦していたと主張している(#『東海璚華集』)。
『三刀屋文書』
『三刀屋文書』「出雲国須波部新左衛門入道軍忠状永徳二年三月日」によると、弘和2年/永徳2年閏1月24日(1382年3月9日)、室町幕府軍の山名氏清や佐々木道彭らが「楠木陣」(楠木一族の軍)と戦ったという(平尾合戦)[12]。戦いの結果、南朝楠木党側が敗退した(『河内国通法寺文書』)[13]。
「楠木陣」にいた可能性がある武将のうち、別の文書で個人として名指されており(『河内国通法寺文書』[12])、参加したのが確実なのは南朝総大将の楠木正儀である(当時、幕府から南朝に帰参したばかりだった)[13]。楠木右馬頭がこの「楠木陣」にいたかどうかは正確には不明だが、年代的には近い戦いではある。いわゆる楠木正勝伝説では、平尾合戦を正勝の人生のハイライトの一つとする場合が多い(軍記物語『後太平記』や歌川芳虎画『大日本六十余将』など)。
『南山御出次第』
元中9年/明徳3年10月13日(1392年11月12日)、明徳の和約による南北朝合一が成立した[14]。宮内庁書陵部所蔵『南山御出次第』には、同月28日に後亀山天皇が京へ向けて御出した際、後亀山に付き添った武士の一覧に「(前略)次楠堂(楠木党)七人(後略)」と書かれている[14]。
『応永記』
室町幕府の守護大名・大内義弘の反乱である応永の乱(1399年)の直後に書かれた戦記『応永記』(15世紀初頭?)によると、応永6年(1399年)11月、楠木氏の武将(名前不明)が200余騎を率いて義弘に加勢したが、堺で将軍・足利義満に敗れたという[5]。そして、いまさら幕府軍に降参しても意味がないと考え、大和路(大和国(奈良県)に通じる道)を通って退却したと描かれている[5]。
『応永記』説について、藤田精一は必ずしも事実ではないとは言えないとして、積極的な肯定も否定もできないという、消極的な判断をしている[5]。
生駒孝臣も「確証がある話ではない」としている[15]。
『満済准后日記』
南北朝合一後、旧南朝系の武将はたびたび室町幕府に反旗を翻した(後南朝)[16]。応永21年(1414年)、明徳の和約が履行されず、旧南朝皇族へ皇位が譲られないことを不満に思った伊勢国司・北畠満雅(親房の曾孫)が挙兵した[16]。『満済准后日記』や『寺門事条々聞書』によると、満雅に呼応して翌22年(1415年)7月に「楠木一類」も河内国で武装蜂起して大規模な反乱となったが、最終的に鎮圧され、楠木一族の和田某ら4人の首が京都・桂川の河原で晒された[16]。
上記の後南朝の楠木氏の武将について、生駒孝臣は、楠木正直なのか楠木正勝なのは一切不明だが、少なくとも楠木正儀の次の世代の武将と見てよいのではないか、としている[16]。
『東海璚華集』
楠木正直(#『花営三代記』)については、楠木氏同族の南朝武将である橋本正督が起こした橋本正督の反乱(1378–1380年)に参加していたとする説が、臨済宗の禅僧・惟肖得巌(1360–1437年)による『東海璚華集』(現存本の散文部分は1449年頃成立)という書の「陞座」(しんそ、禅宗の師僧による説法)にある[17]。
『東海璚華集』のうち陞座など散文部分はかなり古く、瑞渓周鳳の『臥雲日件録』宝徳元年(1449年)7月1日条によると、初編本は惟肖の生前、惟肖自身の意志によって編纂され、弟子の龍崗真圭が清書にあたったという[18][注釈 3]。しかし、同条によると、この初編本は一度火災で消失してしまったらしく、それを惜しんだ門弟の希世霊彦が再編集を行い、宝徳元年(1449年)瑞渓に表題の揮毫を求めたのだという[18]。したがって、現存する『東海瓊璚華集』散文部分は、おそらく希世霊彦によるこの重編本(1449年までに成立)を元にしていると思われる[18]。
惟肖の文は、反乱終結の43年後である応永30年(1423年)時点の述懐として、山名氏清の遺徳を称えるという文脈で書かれたもので、「永和三年」冬の戦いで氏清と兄弟たちが南朝軍を攻撃した時に、氏清のあまりの強さに「正孝」はなすすべもなく殺され、「正直」も逃走してしまったという[17]。
上記のうち、『史料稿本』編集者によると、「永和三年」は永和四年(1378年)の誤記で、「正孝」(まさたか)は正督(まさたか)の誤記であるのが明らかであるという[17]。ちなみに旧暦の冬は10月から12月までのことなので、冬というのは正しい。ただし、氏清が主将になったのは1379年からで、討伐完了も1380年のため、惟肖は数年間の出来事をまとめて記していることになる[17]。残る「正直」について、『史料稿本』編集者は、不明点は多いものの『花営三代記』に見える「楠木正直」と同一人物か、と推測している[17]。
なお、惟肖は正督反乱発生の前年である1377年に京の南禅寺から筑前国(福岡県西部)の聖福寺にしばらくの間移っていたと考えられており[19]、京から直に乱を見た訳ではないことにも注意する必要がある。
子孫の可能性がある武将
15世紀の後南朝の楠木党の武将として同時代史料で確実に確認できる人物としては、永享元年(1429年)の楠木光正や(『看聞日記』)、永享9年(1437年)の楠木兄弟(『看聞日記』等)、長禄4年(1460年)に「南朝将軍之孫」(つまり楠木正儀の孫)と称した某(『碧山目録』等)などができる[16]。
楠木正勝伝説

伝・正勝の概要
1600年ごろから、楠木正儀の嫡子の諱を「正勝」とし、この正勝に対し様々な真偽不明の逸話が付加されていった。
昭和時代初期の南北朝時代史研究者の藤田精一によると、正儀以降の近世伝承・系図類の中では、伊勢楠木氏の一族と称する村田倶信(全休庵)による伊勢楠木氏の家系図『全休庵楠系図』(慶安年間(1648–1652))が[20]、同時代史料や他の近世伝承類との不整合が比較的少ないという[21]。一方で、21世紀前半の研究者の生駒孝臣は、父の正儀の北朝投降すら18世紀ごろまでよく知られていなかった点、楠木正勝伝説は相互に矛盾が多い点なども指摘し、いわゆる「正勝」は南北朝時代以降に作られた人物の可能性が高い、としている[2]。
正勝自体が一本にはならない様々な伝説で語られている存在ではあるものの、この章では仮に比較的まとまりがよい『全休庵楠系図』を中心として、同時代史料も交えつつ、楠木正勝の伝承群をまとめる。
近世所伝によると、楠木正勝は、父正儀の没後、斜陽の南朝を支え、軍記物『後太平記』でその戦術が太公望呂尚にも喩えられるほどだったが、大局は覆せず、元中5年/嘉慶2年(1388年)に平尾合戦で敗北し、さらに元中9年/明徳3年(1392年)楠木氏の本城千早城を喪失した。同年閏10月に南北朝が正式に統合してしまった後もなお室町幕府に徹底抗戦するも、応永6年(1399年)応永の乱の敗走中に負った創傷により、翌応永7年(1400年)に死亡した、とされている[22]。
弟に正元[22]や正秀[23]などがいる。子に伊勢楠木氏の祖となる正顕(正盛)[22]など。日本刀の名工村正第一の高弟である正重は正勝の嫡孫であり[22]、また彦根藩井伊家筆頭家老木俣氏(維新後は木俣男爵家)は正勝を家祖とする[24]。
当主就任まで
官位は従五位上[22]・左衛門尉(村田倶信『全休庵楠系図』)[22]・検非違使尉(『後太平記』巻9)[25]、のちに右馬頭(『事実文編』拾遺一所収の林信篤『木俣守勝墓碑誌』[24]、徳川光圀『大日本史』巻177[26])。
『全休庵楠系図』では、正平6年/観応2年(1351年)、楠木氏惣領正儀の嫡子として出生と伝承される(応永7年に数え50歳で没[22]とあることから逆算)。幼名は小太郎(『全休庵楠系図』)[22]。母は不明だが、正勝は一貫して嫡子として扱われていることなどから、楠木正儀の正室とされる伊賀局が候補として考えられる。
正平24年/応安2年(1369年)、父の正儀が北朝に帰順(『大日本史』巻177-『花営三代記』)[27]。ところが、楠木宗族のうち勤王を貫く者たちは、惣領であるはずの正儀の決定に従わず、逆に合従して正儀を攻め、正儀は身内に敗退して河内国から命からがら脱出している(『大日本史』巻177に引く『後愚昧記』)[27]。この「楠木宗族勤王者」の中に正勝がいたかどうかは古記録では定かではないが、飯田忠彦『大日本野史』巻93は、このとき正勝は父に逆らい南朝に留まり続けたと断じ、そのため正儀が後に南朝に帰参するまで、たびたび父子対決が起こったと主張している[28]。正勝は紀俊文(晩年は南朝方)の娘を妻としているため[22]、実際、南朝方として父に対し戦っていた可能性はある。
建徳元年/応安3年(1370年)、南朝の楠木宗族が和田正武の軍と手を組み、北朝の楠木正儀を打ち破る(『大日本史』巻177-『花営三代記』)[27]。
建徳2年/応安4年(1371年)秋、北朝方の父・正儀が、南朝から河内国を奪還する(『大日本史』巻177に引く『花営三代記』)[27]。
天授3年/永和3年(1377年)、紀俊文(従三位刑部卿)の娘との間に、伊勢楠木氏初代当主となる正盛(後に大河内顕雅の偏諱を受け正顕に改名)を授かっている(『全休庵楠系図』)[22]。その他、正堯[22]や信盛[29]などの子もいたとされる。
『後太平記』巻7「長慶院殿諸所御隠歩之事」が伝える伝説によれば、天授4年/永和4年(1378年)5月2日、長慶法皇は仏道の修行として吉野をお忍びで抜け出し、千早城まで徒歩で踏破して、楠木正儀・正勝父子をねぎらった[30]。思わぬ出来事に、楠木父子は感涙でむせび泣いた、という[30]。しかし、近年の研究では長慶天皇が法皇となり院政を敷いたのは1383年とされ、時期が合わない。またこの頃、正儀とその千早城は北朝に所属しており、僧形に身を変じていたとしても、南朝の頂点である重要人物の長慶天皇が無事千早城に辿り着けた可能性は低い。
さらに、『後太平記』巻7「千剣破合戦付正成遺書之事」等では、同年12月、土丸城を攻め落として勢いづく北朝方を、「南朝方の」正儀・正勝父子が千早城で迎え撃った、としている[31]。しかし、これは当時正儀と千早城が北朝方だったという定説とは矛盾している。
弘和2年/永徳2年(1382年)に父の正儀が南朝に帰参し、参議という高職につく。義満は報復措置として、山名氏清を派遣し、正儀を河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で撃破した(『大日本史』巻177)[27]。ここで正儀は、宗族6人と家臣140人を失うという手痛い敗北を喫している(『大日本史』巻177)[27]。
当主就任後
元中年間(1384–1392年)に父の正儀が死去した後、名実ともに楠木一門を率いる惣領となる(『大日本史』巻177)[26]。
正儀死後に楠木氏の勢力は急速に衰え、わずか300余騎を残す程度であったが、北朝の武将山名氏清は正儀に苦しめられた経験から、楠木氏はあえて劣勢を装っているのだと過剰に警戒し、楠木軍と山名軍は膠着状態にあった(『後太平記』巻9「河内国平尾合戦之事并亀六之術事」)[25]。『後太平記』はこの様子を『三国志』の「死せる孔明生ける仲達を走らす」の故事で喩えている[25]。
元中5年/嘉慶2年(1388年)8月17日未明、子飼いの精鋭騎兵200を含めた1000余りの手勢を率い、紀伊国の名勝和歌浦玉津島神社から帰京の途にあった室町幕府第3代将軍足利義満を奇襲しようと企てる[25](『後太平記』巻9「河内国平尾合戦之事并亀六之術事」)。しかし、赤坂城に駐留中の山名氏清に動向を察知されており、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)に先回りされ、自軍の4倍近い3500余りの兵と戦うことになる[25]。正勝は奇策や挑発など手を尽くしたが、氏清は慎重に慎重を重ねて徹底防御を貫いたため、正勝の軍が疲弊してきたところを狙われ、最後は数的優位を活かされて散々に打ち破られた(詳細は平尾合戦)[25]。
元中7年/明徳元年(1390年)4月4日に「伊予守」という人物が「楠木右馬頭」という人物へ当てた書状の文面(『南狩遺文』所収)[32]が残っていることから、この頃までには右馬頭に任じられていたと考えられる。
同年、剃髪し、仏門に入る(『全休庵楠系図』)[33]。その理由や、虚無や傑堂能勝といった高僧と同一人物であるという仏教伝説との関係は不明。
元中9年/明徳3年(1392年)春、畠山基国に楠木氏の本拠地である千早城を落とされ、吉野に敗走(『大日本史』巻177に引く『渡辺系図』)[26]。この年閏10月5日(1392年11月19日)、南北の朝廷が講和したため、南朝の後亀山天皇が吉野から京に帰ってしまう(明徳の和約)。しかし、正勝は鬱々として、これでは志を得られないとして、北朝には合流しなかった(『大日本史』巻177)[26]。なお、『後太平記』巻14「千剣破合戦之事付城郭明退事」は千早城陥落を南北朝統一後の12月としている[34]。
南北朝合一後
応永6年(1399年)、守護大名大内義弘が応永の乱を起こし、室町幕府に対し反旗を翻すと、正勝もこれに呼応し[注釈 4]、正盛(正顕)・正堯の二子を連れて合流した(『全休庵楠系図』)[22]。兵数は二百余騎(『応永記』)[23]あるいは三百騎(『大日本史』巻177)[26]。このとき、友軍の菊池肥前守[注釈 5]という武将から、肥後菊池住延寿太郎国村作の銘がある名槍を贈られたという(『全休庵楠系図』)[22]。堺に3か月余篭城の末に、反乱軍は幕府軍に敗れ、義弘も闘死した。決着がついたことを知った正勝は、玉砕していたずらに死ぬのは無益であるが、降伏するのもまた恥である、と言って退却し、大和路に向かって逃走した[26]。北畠氏の重臣である鹿伏兎氏の伝承によれば、このとき幕府方として参戦していた伊勢国司北畠顕泰は、楠木の血を絶やさせてはならないと、鹿伏兎孫太郎忠賀に命じて、楠木軍を幕府軍に変装させて城内から連れ出し、正勝ら父子を窮地から救ったという(『鹿伏兎記』『鹿伏家楠氏詳伝』『邑戦異闘家記系図』)[35]。
敗走中、戦闘で負った傷が悪化し、応永7年1月5日(1400年1月31日)に死去(『全休庵楠系図』)[22]。伊勢楠木氏の系図では、正勝の遺骸は二子の正盛(正顕)・正堯兄弟によって河内国大伴邑(現在の大阪府富田林市大伴地区)の林中に葬られたというが(『全休庵楠系図』)[22]、現在の大伴村に正勝に関する所伝は伝わっていない[23]。別伝として、埋葬地は大和国吉野の武蔵(現在の奈良県吉野郡十津川村武蔵)とする伝承も根強い[36]。
死後
『全休庵楠系図』によると、伊勢に逃れた嫡子の正盛は、北畠家の庇護を受け、伊勢国司代行大河内顕雅(北畠顕泰の子)から偏諱を受けて正顕と改名し、伊勢楠木氏(北勢四十八家楠家)の祖となったと伝わる[22]。次男の正堯は丹波国に逃れたが、その後の詳細は不明[22]。正勝の嫡孫で伊勢楠木氏第2代当主の正重は、武将ではなく刀工として活躍し、伊勢の名工村正の高弟になったという[22]。天下三名槍の一つ蜻蛉切などを製作したとされる刀工正真も伊勢楠木氏の一員である[22]。正重の弟の正威は、禁闕の変に参加し後南朝のために三種の神器を奪ったが、討死している[22]。第7代当主楠木正具は、織田信長の伊勢侵攻とたびたび戦っている(以上、『全休庵楠系図』による伊勢楠木氏の伝承)[22]。
伊勢楠木氏の庶流として木俣氏があり、木俣守勝は徳川家康に仕え、のち彦根藩井伊家の筆頭家老となった[24]。その功績から、木俣氏は明治維新後には男爵に叙されている[24]。ただし、守勝には実子がなく、養子の守安が木俣氏を継いだため、もし『全休庵楠系図』が正しかったとしても、現在の木俣氏本家は正勝と血筋上の繋がりはない。その他、伊勢楠木氏の後裔を自称する氏族として、山下氏(アラビア石油創業者山下太郎の氏族)[37]や高楠氏(仏教学者高楠順次郎が婿入りした豪族)[38]などがある。
評価
『後太平記』は、正勝の戦術的才能を、劇中の山名氏清の口を借りて太公望にも匹敵すると高く称賛しているものの、その戦略レベルでの手腕については、劣勢のときは守りを堅くするべきなのに、逆転を狙って奇策に奔るあまり負けてしまったのは愚かだと、痛烈に批判している[25]。一方、19世紀の文筆家武田交来(松阿弥)は、4倍の兵力差ながら鬼謀をもって氏清と渡り合った点を指摘し、結果として負けたとはいえ、正勝の智勇は祖父・正成にも決して劣るものではなかったと弁護し、正勝を日本の名将60余人の一人に数えている[39]。
正勝は江戸時代の小説でも取り上げられ、北朝に帰順した正儀との父子対決が描かれた[40]。都賀庭鐘『莠句冊』(天明6年(1786年))や曲亭馬琴『松染情史秋七草』(文化6年(1809年))などに正勝が登場し、特に『松染情史』の主人公は正勝の甥(弟・正元の子)という設定である[40]。
明治維新後の大日本帝国下では、皇国史観に基づき、正勝の忠臣としての側面が強調された[41]。大正3年(1914年)11月大嘗会で、正勝は贈正四位を、また弟の正元は贈従四位を追贈された[1]。
正勝以降の伝説
十津川村
奈良県宇智吉野郡役所書記(当時)の中西孝則の『十津川記事』明治18年(1885年)5月7日条によると、この日、楠木正勝の子孫を称する後志国忍路郡塩谷村(北海道小樽市西部)の楠正巳という人から郵送で連絡が来て、楠正巳家の家系図では、応永6年(1399年)12月21日に武蔵村(十津川村武蔵集落)で没す(法名は「慈光寺殿叙瑞大居士」)とあるが本当に墓は実在するのか、と聞いてきたという[42]。
これに対し、当時(1885年)の中西孝則の記によると、確かに十津川村武蔵に正勝の墓とされるのがあるのは事実だが、光明寺の位牌には没年は応永18年(1411年)1月15日とあり、法名は「不識院殿賢応全心大居士」だったという[42]。
この墓所がいつごろからあるのか不明だが、明治36年(1903年)の 『楠氏遺蹟志』で既に紹介されており、その時点では正勝の弟の正元の追福の墓も並置されていたらしい[36]。また、同書の著者ははじめ墓所の場所がわからず、吉野神宮の堀宮司に尋ねたとあるから[36]、明治36年の時点ではまだ観光地として整備されていなかったようである。
その後、明治期中に再整備され、追悼祭が行われるようになり、村の有形文化財に指定され、2019年時点でも毎年4月3日に供養が行われている[43]。
普化宗

楠木正勝は南朝崩壊後に普化宗の門に入り、普化正宗総本山明暗寺の創建者天外明普の弟子となって虚無(きょむ、こむ)と名乗り、虚鐸(尺八の半伝説的起源とされる楽器)を持って全国各地を回った、これが虚無僧の語源であるとの伝承がある[44]。これは、足利氏の動向を密かに探るためだったとも言われる[44]。なお、虚無僧という活動形態自体は「薦(こも)僧」などの名称で鎌倉時代から既に報告されており、正勝(=虚無)の伝説はあくまで「虚無僧」という字の語源説話であって、虚無僧そのものの起源説話ではないことに留意する必要がある[44]。
正勝を虚無と同一人物とする伝説は、尺八の起源を説く『虚鐸伝記』(18世紀末)にも登場する。同伝説によれば、正勝は南朝崩壊後、近江国(現在の滋賀県)に隠遁し、虚風という僧に普化宗と虚鐸を学び、虚無としてその法を嗣いだ[45]。虚無は、剃髪せず、法衣も着ず、丸いイグサの編笠を被って顔が見えないようにし、虚鐸を吹いて城市を回って歩くという奇妙な行動を始めた[45]。虚無の風狂な振る舞いに師の虚風が驚くと、虚無は「かつて、唐の普化禅師は鐸を振って狂をなしていましたので、わたくしもその故事に従いたいと思っているのです」と弁明した[45]。編笠で顔を隠すのは市中でも棲遅幽居(世俗を超越した静かな心)の心構えでいるためである、虚鐸は楽葬の象徴である、等々と奇怪な見た目について一つ一つ説明をし、「いかがでしょうか」と師に尋ねたので、虚風は納得して虚無を褒めた[45]。全国行脚の際、身なり卑しく異形の体であったため、人に「貴方は一体何者ですか」と問われると、「僧虚無」(僧、虚無なり)と答えた[45](「拙僧は虚無と申します」という名乗りであると同時に、禅の祖師菩提達磨が梁武帝から「お前は何者だ」と問われた時に、「わかりません(なぜなら、自我も含めて、一切はみな空にして虚無だから)」と禅の境地をもって答えた故事とのダブルミーニング)。これが虚無僧という言葉の語源になったという[45]。各地で普化宗を広めたが、弟子たちも風狂な風体を好み、際立った者では、鎖鉢巻や長刀を帯びるものさえいた[45]。諸国行脚したのち、近江の志賀のほとり(現在の滋賀県大津市志賀)に帰り、儀道という弟子に法を嗣がせ、虚鐸(尺八)を吹く技を伝えた[45]。
晩年は、茨城県つくば市筑波山の普化宗古通寺に滞在した[46]。古通寺は俗に虚無僧寺と言い、幕末に一度廃寺となり、旧大御堂の千手観音像が現在の古通寺跡に移された[47]。しかし、白雲橋近くにあったという移設後の寺も昭和13年(1938年)の山津波により流された[46]。楠木正勝=虚無のものと称する六角石造宝幢が2016年現在も筑波山に現存する[46]。
曹洞宗
曹洞宗の高僧である傑堂能勝を楠木正勝の出家後の姿とする伝説も多い。
正勝であるかはともかく、この傑堂能勝が楠木正成の縁戚であるとする仮定は否定できないが、正成との関係については傑堂能勝が開基した各寺の寺伝でまちまちである。傑堂の本拠地である耕雲寺では楠木正儀の嫡子であった(つまりは正勝か)とされ[48]、茨城県耕山寺[49]でも同じく傑堂の正体は正勝という。傑堂能勝の法を嗣いだ顕窓慶字が開山した新潟県南魚沼市の雲洞庵でも、傑堂能勝=楠木正勝説を取る[50]。その一方で、山形県鶴岡市高坂の洞春院では楠木正成の三男[51]、山形県小国町市野々村の飛泉寺(応永24年(1417年)創建)では楠木正成の三男あるいは四男とする[52]。
藤田精一は、正勝と古剣智訥の年代が合わないことを指摘し、『慶字禅師行状』に傑堂能勝は楠木正成の孫で通称を次郎左衛門と言うとあり、一方で『群書類従』「橘系図」に正秀の通称は二郎左衛門、正元の通称は二郎とあることから、傑堂の正体は正勝ではなく、弟の正秀か正元なのではないか、と仮説を立てている[53]。
その他、兵庫県加西市山下町の正禅寺には、明徳元年(1390年)に楠木正勝と梶原景禅が開基したという伝説がある[54]。
さらに、静岡県駿東郡小山町菅沼の曹洞宗甘露寺は、嘉慶元年(1387年)に楠木正勝の出家後の姿である正巌徳勝(しょうがん とくしょう)によって真言宗金剛王院の末寺として開基され、江戸時代に曹洞宗として再建されたと寺伝では伝えている[55]。ただし、嘉慶年間に創られた宝篋印塔の銘からは、実際はこの徳勝なる人物は初めから禅宗の寺院として甘露寺を開基したことが解明されている[55]。
浄土真宗
浄土真宗本願寺派に伝わる伝説では、永徳2年(1382年)ごろ、戦乱の無常を悟った正勝は河内の真言宗西光寺に隠棲していたが、このころ本願寺派第4世宗主である本願寺善如の教えを受けたという[56]。 その後時代がくだって、正勝の孫の楠木掃部は、7世存如に帰依し、西光寺を本願寺派定専坊に改宗して、浄賢(じょうけん、漢字は浄顕とも)を名乗った[56]。浄賢が正勝の孫であることの真偽は不明であるが、『蓮如上人御一代記聞書』に、明応8年(1499年)2月18日に8世蓮如が「サンバノ浄賢」(当時定専坊は三番(さんば)村にあった)の処を訪ねた記述があることから、浄賢という人物そのものは実在であったと考えられる[56]。定専坊の三代住持である了顕は石山合戦で活躍した武将でもある[56]。伊勢楠木氏第7代当主とされる楠木正具も晩年は11世顕如に帰依して石山合戦で討死したと伝わり、楠木氏と浄土真宗の結びつきは強かったとする伝承が近世から存在する[22]。
その他
山形県鶴岡市の金峯神社に保存されている後醍醐天皇御宸筆の伝説がある尊軸は、楠木正勝が陪従である小林隼人祐を遣わして奉納したのだと伝承されている[57]。なお、前述の通り、同市内には傑堂能勝が創建したとされる曹洞宗の洞春院も存在することから、それと関連する伝説と思われる。
墓所
近世伝承における楠木正勝の墓とされるものは前述の奈良県十津川村武蔵[36]のほか、正勝の子孫が開祖と伝わる大阪市東淀川区豊里の定専坊[29]、茨城県の筑波山神社(古通寺)など各地に存在する。新潟県南魚沼市雲洞の名刹・雲洞庵には、寺の開基の師に当たる傑堂能勝大和の木像と位牌がある[50]。