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橋本正督の反乱

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橋本正督の反乱(はしもとまさたか の はんらん)[注釈 4]は、南北朝時代、天授4年/永和4年11月2日(1378年11月22日)から天授6年/康暦2年7月17日(1380年8月17日)にかけて紀伊国西部(和歌山県)と和泉国南部(大阪府南西部)で行われた合戦。楠木氏同族の元・南朝有力武将で当時は室町幕府方だった橋本正督が紀伊の大族・湯浅党らと共に反乱を起こした。紀伊守護・細川業秀は正督に大敗したため更迭され、将軍・足利義満自らが鎮圧作戦の指揮を執る事態に発展。業秀更迭後は、反細川派の山名義理・氏清・時義の三兄弟が正督の本拠地・槌丸城(土丸・雨山城)[注釈 5]等を落とした。細川派の失態は、康暦の政変(1379年)による管領・細川頼之の失脚に繋がった。最終的に、氏清が正督を討ち取った。頼之失脚と正督敗死は、楠木氏棟梁・楠木正儀の南朝帰参の主要因となった。

概要 橋本正督の反乱, 交戦勢力 ...
橋本正督の反乱

土丸城跡(大阪府泉佐野市大字土丸)。反乱軍大将の橋本正督の本拠地、槌丸城(土丸・雨山城)の泉佐野市側。本合戦の時の城大将は正督の甥。
戦争:南朝と北朝の戦い
年月日:
和暦:天授4年/永和4年11月2日 - 天授6年/康暦2年7月17日

西暦:1378年11月22日 - 1380年8月17日

場所:紀伊国西部(和歌山県)・和泉国南部(大阪府南西部)
結果:室町幕府の勝利
交戦勢力
南朝 北朝
室町幕府
指導者・指揮官
菊水紋橋本正督 †

(菊水紋楠木正直?(惟肖得巌説))[注釈 1]
菊水紋橋本正督の甥[注釈 2]
菊水紋橋本新判官 †
上神源三左衛門尉 †
毛穴五郎左衛門尉 †
湯浅党の諸将
隅田党の諸将
高野政所四所荘官

細川業秀更迭前

松笠菱(細川向かい松)細川業秀
松笠菱(細川向かい松)細川頼基(後の頼元)
五七桐七葉根笹山名義理
五七桐七葉根笹山名氏清
足利二つ引石堂頼世
二つ引き両に右三つ巴赤松義則
二つ引き両に右三つ巴赤松光範
二つ引き両に右三つ巴赤松顕則(春日部顕則)[注釈 3]


細川業秀更迭後
足利二つ引足利義満
五七桐七葉根笹山名義理
五七桐七葉根笹山名氏清
五七桐七葉根笹山名時義
高山尾張守
上田次郎左衛門尉

戦力
不明 不明
損害
不明 不明
南北朝の内乱


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背景

橋本正督の北朝帰順 

歌川国芳『名誉三十六合戦』より『楠正儀』。

南北朝時代後期、橋本正督は楠木氏同族橋本氏の棟梁で、和泉国南部(大阪府南西部)を実効支配した南朝の有力武将だった[4]。 本宗家の和平派・楠木正儀が強硬派の長慶天皇との確執から正平23年/応安元年(1368年)に南朝を離反すると、正督は正儀に替わって同族の河内・和田正武と共に南朝方の主力となり、公家大将・四条隆俊のもと、北朝方の正儀と激しい戦いを繰り広げた[4]。

しかし、文中2年/応安6年(1373年)3月に正儀が長慶の御所である天野行宮を陥落させ、隆俊が敗死すると、同年もしくは翌年ごろ、正督は北朝に投降した[5]。

正督の北朝帰順の理由は、生駒孝臣の推測によると、天野行宮陥落のあまりの速さから、幕府と南朝の戦力差に衝撃を受けたからではないか、という[5]。かつて、防御側として正儀・和田正武・正督らが共同で南朝を防衛した時には、第2代将軍・足利義詮が関東・関西の幕府軍を結集し親征を行ったにもかかわらず、幕府は南朝攻略に半年もかかった[6]。ところが今回、正儀を先導武将とする幕府は、少数の手勢で、1日の戦闘で天野攻略を成し遂げてしまった[5]。

もはや、幕府と南朝の実力差は歴然だった[5]。そのため、自分の支配下にある在地領主や住民たちを守るためには、これ以上抵抗を続けるよりも、幕府側についた方が良いのではないか、と正督は判断したのではないか、という[5]。

北朝時代の正督

再び同陣営になった橋本正督と楠木正儀だが、北朝時代の二人が連携していたことを示す文書は現存しない[5]。生駒孝臣の主張によると、一度訣別した二人が二度と同調・和解することがなかったのは明らかである、という[5]。

ただし、同じく生駒によると、同じ橋本氏でも橋本正仲(橋本九郎)という武将は、天授2年/永和2年(1376年)ごろから、正儀のもとで摂津住吉郡の守護代的な立場で活動している[7]。楠木党の大多数は、正儀の北朝帰順以降、本宗家棟梁の正儀から距離を置いていたものの、正儀に賛同する者も一定数はいたらしい[7]。

天授元年/永和元年(1375年)8月、橋本正督は幕府の出兵要請に応じて紀伊国の南朝軍討伐に向かった[7]。正督は9月25日に紀の川の戦いで南朝軍を破り、翌26日には幕府の紀伊守護・細川業秀と連携して南朝方の湯浅氏の諸城を落とし、紀伊国平定を完了した[7]。

その一方で、第3代将軍・足利義満の烏帽子親として絶大な権力を握る管領・細川頼之に、斯波義将ら反細川派の幕府の武将たちや、頼之と対立した禅僧・春屋妙葩(智覚普明国師)らの寺社勢力は不満を募らせていった[8]。天授3年/永和3年(1377年)に将軍・義満が数え20歳となり、頼之から自立したがる志向を持ち始めると、細川派と反細川派の対立はさらに激化し、越中国(富山県)での頼之と義将の抗争は天下大乱に発展する噂まで飛び交った[8]。

小川信の推測によると、おそらく諸将の間に深まりつつある亀裂を、正督は幕府内部から虎視眈々と注視していたのではないか、という[9]。

正督による反乱の予兆として、堀内は桜井神社(大阪府堺市)に残る「中村結鎮御頭次第」を挙げる[10]。この正月神事の頭役のリストの年号では文中3年/応安7年(1374年)から北朝年号の「応安」に変わっており、正督が北朝に転じた時期と対応する[10]。しかし、永和3年(1377年)に「騒動シテ不動正頭」とあり、翌年と翌々年も「不動正頭」とあるため、1377–1379年の間は何らかの事情で神事が停止になっていた[10]。これは丁度、正督による反乱の前年から槌丸城喪失の年までにあたり、おそらく神社のある若松荘では幕府寄りの国人・地侍層と南朝寄りの層で在地抗争が起きていたのではないか、と推測する[10]。

経過

反乱発生

天授4年/永和4年11月2日(1378年11月22日)、突如、橋本正督は紀伊守護・細川業秀への攻撃を開始し、そのため業秀は後退して籠城した(『花営三代記』同年11月5日条[11])[12]。業秀の使者は5日夜に京へ到着し、この知らせを幕府に報じた(『花営三代記』同日条[11])。この知らせは元関白・近衛道嗣のもとにも6日に届いている(『後深心院関白記』(『愚管記』とも)同年11月6日条[11])。

正督が反乱を起こして南朝に帰参した理由は、小川信の推測によると、反・細川頼之の機運が高まり、幕府が内部から混迷していく情勢を目の当たりにしたからだという[9]。生駒孝臣も小川説を肯定的な文脈で紹介している[12]。その一方で、堀内和明は、幕府への忠誠心の証として、かつての盟友である紀伊国南朝軍への攻撃を強いられた結果、精神的なストレスが限界に達して、再び南朝に戻ったのではないか、としている[13]。

紀伊南朝軍の大勢力・湯浅党は、3年前の戦いでは正督(当時北朝方)を敵としていたが、今回の正督の南朝帰参に呼応したため、反乱の規模は非常に大きなものになった[12][注釈 6]。

11月7日未明、右京大夫・細川頼基(頼之の弟で養嫡子、後に「頼元」に改名)を大将とする援軍の派遣が決定し、山名修理権大夫(山名義理)・山名陸奥守(山名氏清)・石堂三河守(石堂頼世)・赤松蔵人(赤松義則)・赤松判官入道(赤松光範)・赤松出羽守(赤松顕則(春日部顕則)))らが追討軍の将に選ばれた(『花営三代記』同11月7日条[14])[注釈 3]。

11月17日、正督は幕府追討軍と戦ったが敗退、夜には撤退した(『花営三代記』11月21条[16])[12]。

反乱軍の大勝

11月17日に一旦は敗退した橋本正督だが(前節)、すぐに再起し、同月22日に紀伊国への幕府軍の通路を塞いだ(『後深心院関白記』同11月22日条)[12]。

幕府は再び大軍を差し向けた[9]。すると、今回、正督は交戦せずにすぐに兵を引っ込めて撤退した[9]。正督の持久戦によって遠征が長引いたため、いまだに正督討伐が完了していないのに、細川頼基を大将とする援軍は翌12月2日から4日にかけて帰洛してしまった[9]。これは、反細川派の武将たちが細川氏の元でこれ以上戦うのを嫌がり、頼基にも彼らを引き止める手段がなかったからと思われる[9](以上、『花営三代記』同12月4日条[17]、『後深心院関白記』同12月15日条[18]の小川信の解釈[9])。

ただし、頼基は京への撤退時に、近江・摂津・播磨・備前の軍勢は紀伊守護・細川業秀のために残していった(『花営三代記』同12月4日条[17])[注釈 7]。

頼基の援軍本軍が帰京したのを確認した正督は、再び北朝軍に大攻勢を仕掛けた(『後深心院関白記』同12月15日条[18])[9]。しばらくは踏みとどまっていた業秀だが、結局は正督ら反乱軍の猛攻を抑えきれず、12月13日、紀伊を捨てて淡路国(兵庫県淡路島)へ逃走した(『花営三代記』同12月13日条[19])[9][12]。頼基が残していった近江・摂津・播磨・備前の援軍も京に逃げ帰った(『花営三代記』同条[19])。

細川業秀と楠木正儀の更迭

足利義満像(鹿苑寺蔵)

天授4年/永和4年(1378年)12月15日、正督鎮圧が一向に進まないことに、第3代将軍・足利義満は苛立ちを隠さなくなった[12]。『後深心院関白記』同日条には「大樹腹立」云々とある[18](大樹は征夷大将軍の唐名)。同日、義満は自ら鎮圧の陣頭指揮に当たるため、京都内の東寺(教王護国寺)に陣を敷いた(『花営三代記』同15日条など)[12]。

12月20日より少し前、細川業秀は紀伊守護を解任されて新しく山名義理が任じられ、20日、義理は正督討伐のために発向した(『花営三代記』同20日条、『後深心院関白記』同21日条、『後愚昧記』同23日条)[20])。

幕府はさらに、和泉守護として山名氏清を起用した(『後深心院関白記』同21日条、『後愚昧記』同23日条[20])。直前の和泉守護は、河内・和泉・摂津住吉郡の二国一郡守護だった楠木正儀なので、正儀も業秀の失態に連座させられた形である[12]。そもそも正儀は業秀と違い、反乱発生開始当初から一度もこの戦に関わっておらず、軍事的な失態はないので、純粋に政治上の派閥抗争に巻き込まれてしまった不運な更迭である[12]。

正督追討軍に正儀が選ばれなかった理由として、佐藤進一の推測によると、正儀が正督の同族である点、正儀の領国である河内・和泉には正督派も多く徴兵しても反乱鎮圧の戦力になりにくいと思われた点などがあるとされ、生駒孝臣も佐藤説に同意する[12]。もっとも、頼之が正儀を起用したのは、本来、正督の反乱のような事態に対処するためだったはずである[12]。その上、正儀は北朝帰順以降、同族たちとの戦いを何度も経験しており、いまさら正督に情けをかけるわけがない[12]。後援者の頼之の政治的影響力が低下したために、正儀更迭という予想外の結果が起きてしまったのだと思われる(以上、生駒説)[12]。

なお、禅僧の惟肖得巌(1360–1437)は、この乱の40年以上後に語った思い出として、反乱軍に「正直」という武将が加わっていたとしている(#楠木正直の投降?)。楠木正直は正儀の息子の可能性もゼロではないとされる人物[21]で(近世伝承の楠木正勝に相当)、仮にもし惟肖得巌の思い出が正しいのだとすれば、正督追討軍に正儀が選ばれなかった理由も、正儀本人に特に失態がないのに和泉守護更迭という重い懲罰を受けたのも説明が付くと思われるが、同時代人とはいえ40年以上も後の述懐のため正確には不明。

追討軍の再編成を終えた義満は、12月23日、出陣を終えて東寺から邸宅に帰還した(『後深心院関白記』『後愚昧記』『花営三代記』同23日条)[22]。

12月27日には義理・氏清の弟である山名弾正少弼(山名時義)も追討軍に加わることが決定し、京を出立した(『花営三代記』同27日条)[23][注釈 8]。

山名三兄弟の槌丸城・湯浅党攻略

槌丸城の雨山側(現代の用法でいう雨山城)

年が明けて翌・天授5年/永和5年(1379年)1月22日、山名修理権大夫(山名義理、次兄)・山名陸奥前司(山名氏清、四兄)・山名伊予守(山名時義、五兄)の三兄弟は、橋本正督の本拠地である和泉国・槌丸城(土丸・雨山城)[注釈 5]の攻略を開始した[1]。このときの城大将は正督の甥[注釈 2]である[1]。まず三兄弟は、槌丸城の麓にある三箇所の要害(防衛設備)の攻略に取り掛かった[1]。22日の戦闘で城大将である正督甥を含む50余人を追い落とし、20余人を生け捕りとした[1][12]。翌23日の戌刻(午後8時ごろ)、山名兄弟は槌丸城を陥落させ、反乱軍の主城征圧を完了した[9](以上、『花営三代記』永和5年1月22・24日条)。

槌丸城を攻略した余力で、三兄弟はさらに紀伊国へ軍を進めた[12]。

2月9日、三兄弟は有田郡藤波に打ち入り、さらに湯浅城を落城させた(『花営三代記』同9日条[24])[注釈 9]。

「藤波」は、和歌山県有田郡有田川町下津野の藤並館のことと思われる[25]。藤並氏は、鎌倉時代初期の当主・藤並親(ふじなみ したし)が湯浅氏祖・湯浅宗重の末娘を妻としたことから、紀伊を実効支配した巨大武士団・湯浅党の中でも有力な氏族だった[25]。湯浅党は湯浅氏宗家とその分家である「一門」と、婚姻関係等で結ばれた「他門」に分かれるが[26]、藤並氏は「他門」の代表的存在とされる[25]。興国6年/康永4年(1345年)の時点では湯浅本宗家と並んで室町幕府の遵行を担っているものの、この乱では南朝方に与していた[25]。2017年に初めて発掘調査が行われ、13世紀後半から16世紀後半に城館や土塁が存在したことが確かめられたため、古史料通り、湯浅党の重要拠点だったことが確認された[25]。

湯浅城(有田郡湯浅町青木に所在)は、湯浅党の中核であり「一門」を統べる湯浅氏本宗家の本城である[27][注釈 10]。2017年の発掘調査の結果、実際に13世紀から15世紀までは要害の城および饗宴・儀礼的な場として使われていたことが確認された[27]。2020年に前期の藤並館跡と合わせて「湯浅党城館跡 湯浅城跡 藤並館跡」として国指定史跡になった[29]。

さらに、2月11日の払暁(明け方)、幕府軍は湯浅党の石垣城を陥落させた(『花営三代記』同11日条[24])[12]。この石垣城は、有田郡有田川町中井原字城山にある鳥屋城(とやじょう)の前身で、本合戦に登場するのが史料上の初見である[30]。南北朝の内乱が終わった後、応永7年(1400年)に畠山氏によって大幅な改築と外山城(とやまじょう)への改名が行われ、それがなまって「トヤ城」になり、「外屋」「鳥屋」等が当てられたとされる[30]。

山名兄弟はこの時の遠征では敵大将の正督を討ち取ることはできなかったとはいえ、反乱軍に敗退して逃走した細川業秀と比べれば、比較にならないほど大きな戦果だった[12]。結果、業秀と同じ細川氏で後ろ盾でもある管領・細川頼之の権威は著しく落ちることになった[9][12]。

康暦の政変

細川頼之(菊池容斎『前賢故実』より)

槌丸城(土丸・雨山城)攻略のすこし前、足利義満は興福寺宗徒の訴えに応じ、興福寺と対立した十市遠康という武士を討つため、天授5年/永和5年(1379年)1月6日に土岐頼康らを大和国(奈良県)に派遣させていた[9]。そのため、土丸城攻略の後、山名三兄弟による正督鎮圧が安定してきたのを確認すると、2月12日、義満は斯波義将をはじめとする大軍をさらに大和国へ送った[9]。義将・頼康という反細川派の中核が大軍を手にしたため、一触即発の事態となったが、この時は義将が義満に謝罪したため、一旦は事態は収まるかに見えた[9]。

ところが、反細川派の京極高秀が挙兵し、2月末から義満・頼之の幕府中枢と反細川派の間で軍事的な対立関係に発展[9]。頼之がたびたび関東の政治に介入してくるのを不満に思っていた鎌倉公方・足利氏満の思惑や、北朝での康暦への改元なども挟み、ついに閏4月14日、反細川派の数万騎の大軍が義満の御所を取り囲んだ(御所巻)[9]。これには将軍・義満も屈せざるを得ず、烏帽子親でもあった管領・頼之を解任した[9]。このクーデターには、頼之と対立した高僧・春屋妙葩も裏から関わっていたのではないか、ともされる[9]。また、事実上の養父で恩人でもある頼之の庇護から自立したい義満と、反頼之派の利害が一致したとも言われる[12]。

一連の騒動で和泉国を失った楠木正儀とその配下たちの経営は苦しくなったと思われ、天授5年/暦応元年(1379年)8月、正儀は和泉淡輪氏に約束の和泉国内の領地を与えられなくなった振替地として河内国の所領を与えるなどをすることで、何とか部下たちへ便宜を図っている[31]。

正督、槌丸城奪還に備えるか

槌丸城(土丸・雨山城)や湯浅城などの重要拠点を失った橋本正督だが、ぱったりと雲隠れした後、幕府は1年以上もその所在を全く捕捉することができなかった[32]。

この間、正督が何をしていたのかは諸説あるものの、堀内和明は正督最後の戦いが和泉槌丸城だったと主張しており(次節#橋本正督の最期)、槌丸城奪還に備えるため、敗退した紀伊国から密かに和泉国へ帰り、反攻の機会を窺っていたという[32]。

橋本正督の最期

伝橋本正督墓碑。土丸蓮華寺(大阪府泉佐野市土丸397)。写真提供:泉佐野市教育委員会。

康暦の政変後も1年以上に渡って抵抗を続けてきた橋本正督だが、天授6年/康暦2年7月17日(1380年8月17日)、ついに和泉守護・山名氏清の軍に討たれた(『花営三代記』康暦2年7月20日条[33])[31]。

『花営三代記』同日条では討死の簡潔な記述があるのみで、橋本正督最後の戦いの詳細はわからない[32]。しかし、幕府側の将の高山尾張守について、佐藤進一は氏清の有力被官で和泉守護代だったと指摘しており、堀内和明も佐藤説に同意する[32]。ということはおそらく、高山尾張守は槌丸城(土丸・雨山城)の警固(防衛)などの重要任務を務めていたと思われ、正督は奇襲として槌丸城に奪還攻撃を仕掛けたものの、返り討ちにあって討死したのではないか、と、堀内は主張している[32]。

『花営三代記』同日条の「頚注文」によると、橋本民部大輔(橋本正督)の首級を挙げたのは高山尾張守の若党の上田次郎左衛門尉だったという[33]。正督を含めて11人の南朝武将が討死して首が捕られ、そのうち10人については「頚注文」に名前と捕手が記録されている(下記)[33]。下記のうち、上神(にわ)氏と毛穴(けな)氏はそれぞれ和泉国の上神谷(大阪府堺市南区の一部)と毛穴(堺市中区毛穴町)の在地領主であり、この反乱の以前から橋本正督の配下になっていた氏族である[34]。

また、堀内は、下記の多くの武将が、この反乱の50年前の鎌倉時代末期の元徳2年(1330年)の時点で、六波羅探題から「悪党」と名指しされた著名な人物もしくはその子孫だったと思われることを指摘している[13](なお、「悪党」といっても盗賊・山賊の類ではなく、多くは国御家人身分もしくはその庶流であり、鎌倉幕府の中級〜上級武士層であることに注意する必要がある)。

  • 橋本民部大輔、捕手・上田次郎左衛門尉高山尾張守若党
  • 橋本新判官、捕手・蓮池九郎
  • 橋本雅楽助、捕手・井田掃部助
  • 橋本弥九郎、捕手・荻野源左衛門尉
  • 上野[注釈 11]源三郎左衛門尉、捕手・安田四郎
    • 「上神源三郎」(『花営三代記』本文では「上野源三郎」と誤記)について、嘉暦元年(1326年)の悪党蜂起に参加した「若松源三」(「当国御家人若松源次入道」の息子「源三」)と同一人物であると堀内は推測している[13]。なお、御家人・若松氏が本貫とした若松荘は、(『太平記』の物語ではない)歴史上における後醍醐天皇と楠木正成の結節点として非常に重要な地である[36]。
  • 上野[注釈 11]弥四郎、捕手・荻野五郎
  • 下村次郎左衛門尉、捕手・小林中務丞
    • 暦応3年(1340年)3月中旬付の文書に初出の人物もしくは同名子孫で、当時は北朝方だったが、正平6年(1352年)に正儀に敗退して南朝軍に転じたらしい[13]。
  • 毛穴五郎左衛門尉、捕手・井上兵庫助
    • 元徳2年(1330年)の堀江秀清請文に「毛穴左衛門五郎」とある有力悪党・有力武将(「田代文書」元徳二年十二月十六日堀江秀清請文)[13]。同一人物もしくは直系子孫と思われるが、堀内は同一人物説支持寄り[13]。なお、毛穴氏はおそらく、鎌倉幕府国御家人の八田氏の庶流かその傘下の有力国人と思われる[13]。
  • 磯部雅楽助、捕手・多胡四郎左衛門尉
    • 和泉国を本貫とする国人[13]。
  • 桜井弥二郎、捕手・梶村弾正忠
    • 上神氏(若松氏)の分家で、桜井神社(上神谷八幡宮)周辺を本貫とした武士か[13]。

7月20日(西暦8月20日)、11人の首級が京へ届けられ(『花営三代記』同日条[33])、ここに橋本正督の反乱は終息した[31]。

楠木正直の投降?

菊池容斎画『楠正勝』(『前賢故実』より)。伝承で楠木正儀の嫡子とされる武将。史実では楠木正直という武将がそれにあたる可能性があるともされる。

臨済宗の禅僧・惟肖得巌(1360–1437年)が、反乱終結の43年後である応永30年(1423年)に当時のことを述懐した記憶が『東海璚華集』に残る[33]。これは山名氏清の遺徳を称えるという文脈で書かれたもので、「永和三年」冬に氏清と兄弟たちが南朝軍を攻撃した時に、氏清のあまりの強さに「正孝」はなすすべもなく殺され、「正直」も逃走してしまったという[33]。このうち、「永和三年」は永和四年(1378年)の誤記で、「正孝」(まさたか)は正督(まさたか)の誤記であるのが明らかである[33]。ちなみに旧暦の冬は10月から12月までのことなので、冬というのは正しい。

「正直」は不明点が多いが、『史料稿本』編集者は、『花営三代記』に「楠木正直」という武将の名が見えるため、その人物と同一人物か、としている[33]。

その『花営三代記』康暦2年(1380年)12月25日条を見ると、将軍・足利義満の拝賀儀式に参列した幕府の武将に「楠木刑部少輔正直」という人物がいる[37]。生駒孝臣は、伝統的に南朝総大将楠木正儀の嫡子とされる楠木正勝の実在性について強く疑問視しており、そのかわり、この正直という人物が歴史上における正儀の息子の可能性もあるのではないか、としている[21]。一方で、正直説も確証がないため、結局は保留とせざるを得ないとし、積極的な肯定もしない[21]。

後史:湯浅党の終焉

『武家百人一首』より『山名氏清』

乱の総大将・橋本正督を討った後も、室町幕府軍はしばらく紀伊国に残る南朝軍との戦いを続けた。

天授6年/康暦2年(1380年)8月23日、幕府軍は紀伊国の高野政所と隅田一族(隅田党)を破った(『花営三代記』康暦2年8月23日条)[38]。

高野政所(和歌山県伊都郡九度山町慈尊院)は、高野山真言宗の総本山である金剛峯寺の山麓に設けられた政所(荘園管理の実務室)であり、のち慈尊院(女人高野)が併設されている[39]。国立史料館によると、金剛峯寺の荘園を代々管理した四荘官家(高坊・田所・亀岡・岡の4家)は独自の戦力を持つ地侍的な性格を持っており、この戦いで南朝方として戦った「高野政所」とはこの荘官たちのことを指していると思われるという[40]。四荘官家は四所荘官とも呼ばれる[39]。

隅田党(すだとう)は、「隅田二十五人」とも呼ばれ、和歌山県橋本市隅田町の隅田八幡宮別当だった隅田氏を中心とした武士団[41]。ちなみに湯浅党とは違い、こちらの武士団連合は江戸時代まで生き残り、「隅田組」として紀州徳川家から地士身分で召し抱えられている[41]。

そして、9月7日には生地城(おんじじょう)が陥落した(『花営三代記』同9月7日条)[42]。生地氏(おんじし)は、湯浅党の「他門」(婚姻関係等で湯浅氏と連携した氏族)の一つである[26]。生地城は「銭坂城」(ぜんざかじょう)等とも呼ばれ、和歌山県橋本市の野(の、一字地名)に銭坂城跡が存在する[43]。ただし、これは永享年間(1429–1441年)に移築された新城であって、南北朝時代の生地城(銭坂城)は別の場所にあったとも伝わる[43]。

1380年の湯浅党の城館の陥落をもって、平安時代末期から続いた紀伊国最大の武士団・湯浅党は終わりを迎えたとされている[26][注釈 12]。

影響

前述したように、小川信の説によると、橋本正督がこのタイミングで乱を起こしたのは、細川派と反細川派の対立が深まり、政策も行き詰まりつつあったのを見計らっただとされている[9]。この説が正しいとすれば、正督は討死こそしたものの、その目論見通り、初期室町幕府で最も重大な事件の一つである康暦の政変を誘発することに成功し、日本史に大きな影響を与えたことになる。

康暦の政変によって大きく運命が変わった一人は、元南朝方の楠木正儀である[31]。後ろ盾の細川頼之を失い、和泉国の守護職も取り上げられた正儀は、この2年後の弘和2年/永徳2年(1382年)頃に南朝へ帰参する[31]。ただし、当時、正儀は幕府内で孤立しつつあったとはいえ、南朝に帰参した時点では、離脱の緊急性が高いほど幕府内で窮地に陥っていた訳ではなかった[31]。生駒孝臣は、あくまで想像としつつも、討ち死するにしても、政争に巻き込まれて謀反人として無為に死んでしまうよりは、最後は同族の正督のように南朝の廷臣として死ぬ方が潔いと思ったのではないかとして、正督の死が心情的に影響したとする説を主張している[31]。

正督の反乱前後で特に勢力を伸ばしたのが正督討伐に成功した山名氏で、一門で合計5ヶ国もの守護領国を増やしている(正督討伐のために紀伊・和泉、康暦の政変による守護改替で備後・出雲・隠岐)[45]。以前から所有していた6ヶ国(丹波・伯耆・丹後・因幡・美作・但馬)を合わせると11ヶ国に及び、日本の1/6を領国としたことから、山名氏は「六分一殿」と称されるようになる[45]。その上、山城国も加増されたため、最盛期は12ヶ国になった[45]。しかし、山名氏の勢力伸長を恐れた将軍・足利義満の画策によって、のち明徳の乱(1392年)を起こして誅伐され、全盛期に比べて勢力圏は大きく減退する[45]。とはいえ、康暦の政変をきっかけに一門は侍所所司(頭人)を多く出すようになり[45]、後にその地位が固定化され、侍所所司を輩出できる家格「四職」の一つとして、室町幕府の要職を担っていくことになる[46]。

伝説・創作

和田正武の反乱加勢

近世史書の『南方紀伝』(17世紀?)の天授4年(1378年)12月18日条には「和田和泉守籠土丸城」[47]とあり、南朝の有力武将で楠木氏同族である河内和田氏の棟梁・和田正武も正督に呼応して幕府と戦ったとされている[48]。

正督最後の戦い

天授6年/康暦2年7月17日(1380年8月17日)に橋本正督が討死した最後の戦闘の経緯については、史料の『花営三代記』[33]では討たれた記事があるのみで詳しいことはわからない。しかし、伝承によると、正督たちは槌丸城(土丸・雨山城)奪還を目指して城に攻撃を仕掛けたものの果たせず、最期は高名里(大阪府貝塚市海塚付近)で討たれたのだという[49]。

南朝忠臣・橋本正「高」

江戸時代、水戸藩の徳川光圀編『大日本史』[35]では、橋本正督とほぼ事績は同じだが名前が同音異表記の「橋本正高」という人物の列伝が立てられ、北朝へ降ったことがあるのは「正督」、「一度も南朝を裏切らず」最期まで忠臣として戦い本合戦で討死したのは「正高」であるという区分けがなされた[49]。この新しく創作された「橋本正高」という正督の別人格は、大正時代後期〜昭和時代初期の1920年代から1940年代初頭にかけて、にわかに脚光を浴び、「一貫して忠義を貫いた」南朝忠臣として、当時、大阪府南西部の郷土のヒーローとしてたびたび顕彰が行われた[49]。

脚注

参考文献

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