楽府令
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歴史
秦代の封泥に「楽府」と書かれたものがある[1]。長官・次官が楽府令・楽府丞かの確証はないが、そうであった可能性は高い。
漢では高祖劉邦のときに、側室の唐山夫人が房中祀楽という歌を作った[2]。それは楚の声律で、恵帝2年(紀元前193年)に、楽府令の夏侯寛がふさわしい簫管を備え、安世楽と名づけた[2]。
武帝は、楽府を立て、民間の詩を採集して夜に謡わせた[3]。趙、代、秦、楚の歌があった[3]。
宣帝は、本始4年(紀元前70年)正月に、楽府の楽人を減らし、農業につかせた[4]。凶作に対する経費節減のためである。
元帝は、初元元年(紀元前48年)6月に、民が疫病で苦しんでいるため、楽府の楽官を減らすよう命じた[5]
哀帝は、綏和2年(紀元前7年)に「鄭声は淫らで音楽を乱し、聖王が放棄したものだ」という理由で、楽府を廃止した[6][7]。
太楽・楽府の分担
前漢の音楽関連の官には楽府令のほかに協律都尉と太楽令があった。楽府の音楽は、主に宮廷の儀式と宴会で、皇帝・廷臣を聴き手として演奏したもので、地方や民間の音楽を積極的に取り入れた。協律都尉の職責ははっきりしない。
太楽令は祭祀をつかさどる太常の下にあり、祭祀の場で演奏し、伝統を守ることを使命としていた。河間王の劉徳は、先王からの由緒ある雅楽を集めて献上し、武帝はそれを太楽に容れた[8]。これも結局は民間から採集したものだが、儒者は由緒ある雅楽を推し、その他を鄭声と呼んで排斥しようとした[8]。鄭声は春秋時代の鄭の音楽で、孔子が淫らだと言って嫌ったものである。それがそのまま前漢に伝わっていたとは考えられないので、儒教の立場から認められない音楽の総称であろう。
成帝のとき、雅楽を広めて鄭声を止めようと宋曄が建議し、博士の平当が是としたが、当時の公卿(高官たち)は、古い時代のことで明らかにし難いとして、実施しなかった[9]。
哀帝はもとから音楽を好まず、貴族・外戚まで音楽や歌手・踊り手に夢中になる風潮を苦々しく思い、即位した年に楽府を廃止した[7]。829人の楽人・楽工のうち、儀式のために必要な388人を太楽に移し、儒教的に正当化できない441人を解雇した[10]。
組織と人員
楽府令は、宮廷の財政・用度にかかわる少府の下に属した[11]。『二年律令』では、官秩六百石[1]。
次官に丞(楽府丞)が3人いた[11]。他に部下となる少数の官吏と、多数の楽人(楽官)がいた。楽人は綏和2年(紀元前7年)の廃止時点で829人いた。
廃止時の人員
廃止時の内訳が、『漢書』礼楽志に詳しく書いてある[10]。楽府の職務と規模を表しており、以下に列挙する。具体的にはよくわからないものが多い。
- 郊祭の楽人 - 62人。郊祭は都の郊外で行う天地を祭る重要な祭祀
- 大楽の鼓 - 6人
- 嘉至の鼓 - 10人。嘉至は曲の名
- 邯鄲の鼓 - 2人。邯鄲は地名。邯鄲という名で呼ばれる鼓
- 騎吹の鼓 - 3人。騎馬で演奏する
- 江南の鼓 - 2人。地名
- 淮南の鼓 - 4人。地名
- 巴俞の鼓 - 36人。地名
- 歌鼓 -24人
- 楚厳の鼓 - 1人
- 梁皇の鼓 - 4人
- 臨淮の鼓 - 35人。地名
- 茲邡の鼓 - 3人
以上、12種の鼓の合計が128人。朝賀置酒の儀式のとき、殿(宮殿の建物)の下に並んだ。
- 外郊祭 - 13人
- 諸々の楽人で、雲招を兼ね、南郊で働く者 - 67人。雲招は歌舞曲の名
- 諸々の楽人で、雅楽を兼ねる者 - 4人
- 夜誦 - 5人。夜に歌う歌手。
- 剛、別柎 - 2人。剛、別柎は鼓の種類
- 盛徳と調篪 - 2人。いずれも舞の名
- 聴工 - 1人。音律によって冬至や夏至を知るという、音を用いた占い師
- 鐘工 - 1人。鐘という楽器を制作する
- 磬工 - 1人。磬という楽器を制作する
- 簫工 - 1人。簫という楽器を制作する
- 僕射 - 2人。楽人を統率する。
- 竽工 - 3人。竽という楽器を制作する
- 琴工 - 5人。琴という楽器を制作する
- 柱工 - 2人。楽器の主要部品である柱を制作する。
- 縄弦工 - 6人。楽器の弦を制作する
- 鄭の四会 - 62人。曲の名
- 張瑟 - 8人。瑟の弦を張る
- 安世楽の鼓 - 20人
- 沛の吹鼓 - 12人。地名
- 族歌の鼓 - 27人
- 陳の吹鼓 - 13人。地名
- 商楽の鼓 - 14人。
- 東海の鼓 - 16人。地名
- 長楽の鼓 - 13人
- 縵樂の鼓 - 13人
以上8つの鼓、128人は、朝賀置酒の儀式のとき、前殿の房中(屋内)にいた。
- 治竽 - 5人
- 楚の鼓 - 6人
- 常従の倡 - 30人。倡は俳優。
- 常従の象人 - 4人。人をかたどる、人形劇または仮面劇と言われるが、不明
- 詔による常従の倡 - 16人
- 秦の倡 - 29人
- 秦の倡の象人 - 29人
- 詔による秦の倡 - 1人
- 雅大人 - 9人
以上は、宮廷の朝賀置酒の儀式のとき、楽を奏した。
- 楚の四会 - 17人
- 巴の四会 - 12人
- 銚の四会 - 12人
- 斉の四会 - 19人
- 蔡の謳 - 3人。謳は斉唱のこと
- 斉の謳 - 6人
- 竽・瑟・鐘・磬 - 5人
以上は廃止時に鄭声とされた。
- 師学 - 142人。不明。廃止時に約半数が太官令のもとで馬乳酒を作る仕事に転じた。