楽浪郡における塼室墓の出現については、公孫氏との関係で解釈される場合が多い。公孫度が遼東を支配下に置くと、中国本土から難を逃れるため、多くの一般民衆や人士が山東半島から海路で遼東に流入したとされ、その一部が公孫氏支配下の楽浪郡・帯方郡に流入したとみられており、新墓制の採用の契機となった可能性がある[2]。
公孫度は中平六年(189年)に遼東太守になると、初平元年(190年)に遼東侯・平州牧を自称し、遼東を支配下に置き、建安九年(204年)に公孫康は楽浪郡の屯有県以南の地域を分けて帯方郡を設置しており、2世紀後葉に楽浪郡は公孫氏の支配下に入ったとみられ、景初二年(238年)に明帝が公孫淵を滅ぼすまでの間、楽浪郡・帯方郡は公孫氏が統治した[3]。胴張の墓室に穹窿式塼天井をもつ楽浪郡の典型的な塼室墓の出現は2世紀後葉であり、胴張の墓室に穹窿式塼天井をもつ楽浪郡の典型的な塼室墓は遼東に系譜があるため、公孫氏の勢力範囲と重なる。胴張の墓室に穹窿式塼天井をもつ楽浪郡の典型的な塼室墓の遼東での成立を契機として、楽浪郡では塼室墓が急増しており、楽浪郡における塼室墓の普及と公孫氏との間には密接な関係がある[3]。
石材天井塼室墓は楽浪郡の在地墓制に系譜を引くものではなく、外来的墓制であるため、遼東などから楽浪郡へ新移住した新興豪族の墓制である可能性が高い。中国前漢代の中原で出現し、その後、中国全域に普及した塼室墓である石材天井塼室墓の平壌駅前永和九年塼出土古墳から「永和九年三月十日遼東韓玄菟太守領佟利造」という新興姓である楽浪佟氏である佟利の銘塼が出土しており、被葬者は楽浪郡末期から楽浪郡滅亡後に新出現した新興豪族と推定される。「遼東韓玄菟太守」という称号は永和九年(353年)という楽浪郡滅亡後であり、また「韓太守」という実際は存在しない称号を使用しているため、虚号とみられる[1]。同じく石材天井塼室墓の黄海南道安岳郡路岩里古墳から「建武八年西邑太守」「西邑太守張君塼」銘塼が出土した。被葬者は「西邑太守」の張氏であることが判明したが、官職の「西邑太守」について考察する銘文資料はないが、建武八年(342年)という楽浪郡・帯方郡滅亡後の年号であるため、「遼東韓玄菟太守領佟利」の佟利の称号と同じく虚号の可能性があり、佟利のような新興豪族に与えられた称号とみられる。以上の銘文塼の検討から、石材天井塼室墓の被葬者(佟利、「西邑太守」の張氏)には、公孫氏政権時期から楽浪郡・帯方郡滅亡後に新出現した新興豪族が含まれているとみられる[1]。