公孫康
From Wikipedia, the free encyclopedia
事跡
建安年中に、楽浪郡18城の南半分である屯有県(現在の黄海北道黄州か)以南を裂いて帯方郡を設置した。三国志東夷伝韓条に書かれている「是後倭韓遂屬帶方」だけを取り上げて「韓や倭まで勢力を広げた[2]」と誤訳しているものが多いが、この一文の全体は、
「桓、靈之末,韓濊強盛,郡縣不能制,民多流入韓國。建安中,公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡,遣公孫模、張敞等收集遺民,興兵伐韓濊,舊民稍出,是後倭韓遂屬帶方」
と書かれている。ここでの「倭韓」は「濊と韓」を指しており、この一文での「倭」は「濊」のことを指している。
建安12年(207年)、烏桓の大人(単于)楼班と袁煕・袁尚兄弟らが曹操に追われ遼東郡に逃れてきた時、袁尚らがいることを理由に曹操が攻めてくる事を恐れ、楼班をはじめ袁煕・袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出した。これにより、曹操から襄平侯・左将軍に任命された。