公孫康

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公孫 康(こうそん こう、生年不詳 - 黄初2年(221年[1])は、中国後漢末期の群雄の一人。幽州遼東郡襄平県の人。家系遼東公孫氏。父は公孫度。弟は公孫恭。子は公孫晃公孫淵

出生 生年不詳
幽州遼東郡襄平県
拼音 Gōngsūn Kāng
主君 曹操
概要 公孫康, 後漢 遼東太守・左将軍・襄平侯 ...
公孫康
後漢
遼東太守・左将軍・襄平侯
出生 生年不詳
幽州遼東郡襄平県
死去 黄初2年(221年
幽州遼東郡
拼音 Gōngsūn Kāng
主君 曹操
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事跡

建安9年(204年)、父の後を継いで太守となった。

建安年中に、楽浪郡18城の南半分である屯有県(現在の黄海北道黄州か)以南を裂いて帯方郡を設置した。三国志東夷伝韓条に書かれている「是後倭韓遂屬帶方」だけを取り上げて「まで勢力を広げた[2]」と誤訳しているものが多いが、この一文の全体は、

「桓、靈之末,韓濊強盛,郡縣不能制,民多流入韓國。建安中,公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡,遣公孫模、張敞等收集遺民,興兵伐韓濊,舊民稍出,是後倭韓遂屬帶方」

と書かれている。ここでの「倭韓」は「濊と韓」を指しており、この一文での「倭」は「濊」のことを指している

建安12年(207年)、烏桓の大人(単于)楼班と袁煕袁尚兄弟らが曹操に追われ遼東郡に逃れてきた時、袁尚らがいることを理由に曹操が攻めてくる事を恐れ、楼班をはじめ袁煕・袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出した。これにより、曹操から襄平侯・左将軍に任命された。

黄初2年(221年)死去し[1]曹丕(文帝)から大司馬を追贈されている。

配下

関連項目

脚注

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