武王克殷
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2度目の挙兵
→詳細は「牧野の戦い」を参照
兵を引いて2年の後、帝辛の苛政は一層激しさを増し、再び挙兵した。諸侯はこれに応じ、戦車300乗、士官3000人、武装兵45000人が集まった。牧野において、殷兵70万[注釈 1]と対峙したが、殷の奴隷兵は帝辛に反旗を翻し、姫発はこの戦いに勝利した。
→詳細は「帝辛」を参照
一方で牧野の戦いに敗れた帝辛は、首都朝歌(現在の殷墟)に退き、鹿台という高塔に登り、火を放って焼身自殺した。これにより、殷王朝は滅びたとされる。帝辛の死後、朝歌に入城した姫発は、帝辛の焼死体を探し出し、矢を打ち込んで、首を鉞で落とし、殷放伐の完了を宣言した。これが紀元前1027年[3][4]のことであったとされる。
→詳細は「伯夷・叔斉」を参照
姫昌の考えと同じく、帝辛を討たずに世を治まることを姫発に進言していた伯夷・叔斉は、これに反発して周を去り、周の作物は食べられないと言って首陽山に籠もり、草木を食べていたがやがて餓死したとされる。司馬遷はこれについて、悪人とされた盜蹠も比較対象として、「天道是邪非邪」(善人が報われるのは本当だろうか)と述べている[5]。