武蔵武芝
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略歴
天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した武蔵権守・興世王と同介・源経基が、赴任早々に収奪を目的とし足立郡内に進入してきた。そのため、足立郡郡司と武蔵国衙の判官代(在庁官人の職名の一つ)を兼ねていた武芝は「武蔵国では、正官の守の着任前に権官が国内の諸郡に入った前例はない」として、これに反対する。しかし2人の国司は武芝を無礼であるとして、財産を没収する。武芝は一旦山野に逃亡した後、平将門に調停を依頼した。
将門の調停により興世王と武芝は和解したが、和議に応じなかった経基の陣を武芝の兵が取り囲み、経基は京に逃亡、将門謀反と上奏し承平天慶の乱の遠因となった。その後の武芝の消息は不明であるが、『将門記』では氷川神社の祭祀権を失ったとしている。これを国司による処分と見るか、将門に連座して討ち取られたものと見るかについて見解が分かれている。
人物
『将門記』では名郡司と評されている。
- 長年公務に精勤し、良い評判があり謗られるようなことはなかった。郡内の統治の名声は武蔵国中に知れ渡り、民衆の家には遍く蓄えがあったという。