興世王
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出自
経歴
承平8年(938年)武蔵権守として赴任。武蔵介・源経基と共に赴任早々に検注[4]を実施にかかり、武蔵では正官の国司赴任以前には検注が行われない慣例になっていると拒否した足立郡郡司・武蔵武芝に対し、経基と共に兵を繰り出して郡家を襲撃し略奪を行う[5]。武芝は山野に逃走、幾度となく文書で私財の返還を求めたが、興世王らは応じないどころか合戦の準備をして威嚇までしてみせた。この話を聞いて私兵を率いて武芝の許を訪れた平将門は、妻子を連れ軍備を整えて比企郡狭服山へ立て篭もっていた興世王と武芝を会見させて和解させようとする[6]。しかし、その酒宴の最中に経基の営所が武芝の兵に囲まれるという事態が起こり、生命の危険を感じた経基は慌てて京へ逃げ帰ってしまう。経基は興世王と武芝と将門が共謀して謀反を謀っていると訴えると、将門の主人である太政大臣・藤原忠平が事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。興世王・将門・武芝が天慶2年(939年)5月2日付で常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書をそえて送ると、朝廷は疑いを解き、逆に経基は誣告罪で左衛門府に拘禁された。
しかし、同年5月に正任国司・百済王貞連が赴任すると事態が一転する。興世王は貞連と不仲で[7]、貞連は興世王を国庁の会議に全く列席させなかった。やがて興世王は任地を離れて下総の将門のもとに身を寄せる。翌年、常陸の豪族藤原玄明と常陸介藤原維幾が対立し、玄明に助力した将門は常陸国府を襲撃、国府を占領した将門は印璽を奪い、維幾を京へ追い返してしまう。将門の側近となっていた興世王は「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム」と将門に東国制覇を勧め[8]、将門はこの言に乗り下野国・上野国の国府を占領して世に言う平将門の乱を起こした。上野国府で新皇を僭称した将門の下、時の主宰者となった興世王は藤原玄茂と共に独自に除目を発令し、自らは上総介に任命される。
将門らの謀反により翌天慶3年(940年)に以前の訴えが事実になって経基は放免、将門追討が開始される。同年2月14日に平貞盛・藤原秀郷らとの合戦で将門が討ち死にすると、将門の勢力は一気に瓦解して首謀者は次々と討たれ、興世王も2月19日上総で平公雅に討たれた。