水無瀬兼成 水無瀬家13代。三条西公条の次男。水無瀬英兼の養子。正二位・権中納言。出家 From Wikipedia, the free encyclopedia 水無瀬 兼成(みなせ かねなり)は、戦国時代から江戸時代の公卿。正二位・権中納言[1]。 時代 戦国時代 - 江戸時代生誕 永正11年(1514年)死没 慶長7年9月18日(1602年11月1日)改名 親氏(初名)→兼成→慈興(法名)概要 凡例水無瀬 兼成, 時代 ... 凡例水無瀬 兼成時代 戦国時代 - 江戸時代生誕 永正11年(1514年)死没 慶長7年9月18日(1602年11月1日)改名 親氏(初名)→兼成→慈興(法名)別名 一字名・水官位 正二位・権中納言主君 後柏原天皇 →後奈良天皇 →正親町天皇 →後陽成天皇氏族 水無瀬家父母 父:三条西公条、母:甘露寺元長の娘養父:水無瀬英兼兄弟 三条西実枝、兼成、女(中院通為室)妻 阿州足利子 氏成、女(大通寺従高室)養子:親具テンプレートを表示閉じる 生涯 永正11年(1514年)、三条西公条の次男として誕生。兄に実枝がいたため、水無瀬英兼の養子となる。 天文16年(1547年)正月5日、従三位に叙される[1]。 永禄11年(1568年)10月、将軍・足利義栄が阿波へ退くと、義栄派の公家は朝廷を追われ、兼成も阿波へ下向を余儀なくされた[2]。 元亀2年(1571年)10月、実子の氏成が誕生する。だが、高倉永家の四男・親具をすでに養子としていたため、兼成の跡目をめぐって争いが起きた。結局、親具は水無瀬家を去り、別家となる堀河家を立ち上げた。 天正元年(1574年)、京に戻る[1]。 慶長5年(1600年)、出家し、慈興と号する。 慶長7年(1602年)9月18日、死去。享年89。 人物 兼成は能筆家として知られ、将棋の駒に銘を印した。「水無瀬駒」と称されたその駒は、正親町天皇や後陽成天皇、足利義昭、豊臣秀次、 徳川家康など、公武の面々に譲渡された。兼成がその生涯で制作した将棋駒は、700組以上だとされる[3]。 脚注 [1]『公卿補任』 [2]榎原 & 清水 2017, p. 389. [3]『水無瀬駒』(水無瀬神宮公式サイト) 参考文献 榎原雅治; 清水克行 編『室町幕府将軍列伝』戎光祥出版、2017年。 関連項目 畿内・近国の戦国時代 Related Articles~TimelinesTop QsFact Checks