永積寅彦

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永積 寅彦(ながづみ とらひこ)は、昭和天皇の学友。侍従次長、掌典長を歴任した。

戦後

1902年明治35年)2月、大迫尚道の三男として生まれた[1]。のち、工学博士永積純次郎の長女純子と結婚し、婿養子になる[1]

1908年(明治41年)4月、学習院初等科に入学。皇孫迪宮裕仁親王の学友に選ばれる。

1914年(大正3年)5月15日、皇太子裕仁親王の東宮御学問所が高輪東宮御所に設置。学友に選ばれる。

1926年(大正15年)3月、東京帝国大学法科大学仏蘭西法科を卒業。

1927年昭和2年)3月3日、侍従に任じられ、高等官七等になった[2]。同年4月30日、陸軍中将浅田信興の葬送に勅使として差遣された[3]

1928年(昭和3年)10月13日磯部正春葬送に勅使として差遣された[4]10月29日、即位大礼の行幸への供奉を命じられた[5]

1929年(昭和4年)1月8日、葉山への行幸啓に供奉することを命じられた[6]3月30日、陸軍騎兵曹長から陸軍騎兵少尉に昇任した[7]11月30日には武内徹葬送に[8]12月2日には佐分利貞男葬送に[9]、それぞれ勅使として差遣された。12月21日には高等官六等に昇叙し、十級俸を下賜された[10]。また、この年に行われた高等試験行政科本試験に合格[11]、口述試験を経て[12]試験に合格した[13]

1930年(昭和5年)1月7日2月3日、それぞれ葉山行幸啓への供奉を命じられた[14][15]3月4日、宮内事務官皇后宮事務官を兼任[16]、侍従職勤務を命じられた[17]5月24日静岡県行幸の供奉を命じられた[18]7月20日深谷又三郎葬送に勅使として差遣された[19]10月16日、観艦式等への供奉を命じられた[20]

1931年(昭和6年)1月4日には賀古鶴所葬送に[21]2月24日には下重次郎葬送に[22]8月23日には大橋顧四郎葬送に[23]、それぞれ勅使として差遣された。8月27日には浜口雄幸薨去に付き同邸に弔問の勅使として差遣された[24]10月14日には小池安之葬送に勅使として差遣された[25]

1944年(昭和19年)12月20日、侍従に任じられ、高等官三等に叙された[26]1945年(昭和20年)1月15日には高等官二等に陞叙した[27]。同年6月28日、石井菊次郎葬送に勅使として差遣され、幣帛下賜を担った[28]

1945年(昭和20年)10月23日、大膳頭に任じられ、高等官二等に叙され、三級俸を賜った[29]。11月24日、侍従兼宮内事務官に任じられ、改めて高等官二等に叙された[30]。12月17日、町尻量基の葬送に勅使として差遣され、祭粢料の下賜を担った[31]

1964年(昭和39年)5月30日、元衆議院議長大野伴睦の葬送に柩前使兼賜物使として港区下高輪町の大野邸に差遣され、祭粢料・生花の下賜を担った[32]

1965年(昭和40年)3月30日、侍従次長に就任[33]

1968年(昭和43年)4月1日、侍従次長を退任[33]。9月10日、掌典長に就任[34]

1977年(昭和52年)6月20日、掌典長を退任[34]

晩年

1979年(昭和54年)3月30日、宮殿表御座所芳菊の間に於いて、昭和天皇・香淳皇后に拝謁した[35]

1980年(昭和55年)2月12日、東宮御学問所のご学友同窓会「竹蔭会」会員として堤経長松平直国渡邉昭と共に参内し、昭和天皇と茶を供した[36]

1981年(昭和56年)1月5日、このとき病気で入院していた寅彦の許に、昭和天皇・香淳皇后より果物が贈られた[37]

1982年(昭和57年)1月19日、竹蔭会会員として堤経長・渡邉昭と共に昭和天皇に招かれ、宮殿連翠北の茶会に出席した[38]。9月21日、宮殿表御座所菊の間に於いて昭和天皇に拝謁した[39]

1985年(昭和60年)4月5日、学習院初等科のご学友同窓会「竹友会」会員として宮殿連翠南で昭和天皇に拝謁し、茶席に出席した[40][注釈 1]11月27日、昭和天皇に連翠南にて元側近奉仕者14名と共に拝謁、茶席に出席した[41]

1986年(昭和61年)4月8日、前年同様、竹友会会員として連翠南で昭和天皇に拝謁、茶席に出席した[42][注釈 2]

1987年(昭和62年)4月7日午後、前年同様、竹友会会員として連翠南で昭和天皇に拝謁、茶席に出席した[43][注釈 3]

1988年(昭和63年)4月12日午前、竹友会会員として宮殿表御座所花の間で昭和天皇に拝謁した[44][注釈 4]

1989年(昭和64年 / 平成元年)1月7日、昭和天皇崩御[45]1月12日藤森昭一宮内庁長官より、大喪儀に奉仕する祭官長を委嘱される[46]。1月19日、殯宮移御の儀に於いて、殯宮が整うと皇族以下と共に着床し、祭詞を奏した[47]。これ以後も1月20日の殯宮移御後一日祭の儀[48]、1月21日の殯宮拝礼の儀[49]、1月26日の殯宮二十日祭の儀[50]、1月31日の追号奉告の儀[51]、2月5日の殯宮三十日祭の儀[52]、2月15日の殯宮四十日祭の儀[53]、2月23日の霊代奉安の儀[54]、2月24日の斂葬当日殯宮祭の儀・斂葬の儀葬場殿の儀・陵所の儀祭場殿の儀[55]、2月25日の斂葬後一日権殿祭・権殿五十日祭・斂葬後一日山陵祭・山陵五十日祭の儀[56]、4月16日の権殿百日祭の儀・山陵百日祭の儀[57]、4月17日の山陵起工奉告の儀[58]、平成2年(1990年)1月6日の山陵竣工奉告の儀[59]、同年1月7日の権殿一周年祭の儀・山陵一周年祭の儀[60]に於いて、それぞれ祭官長として祭詞を奏した。1月8日、大喪儀委員会が廃され、祭官長としての委嘱が解かれた[61]

1990年(平成2年)2月、礼宮妃となる川嶋紀子に対する、皇室の伝統・教養などの講義「妃氏進講(お妃教育)」のうち、「神宮宮中祭祀」を担当[62]

1993年(平成5年)3月、皇太子妃となる小和田雅子に対する「妃氏進講」のうち、「神宮・宮中祭祀」を担当[62]

1994年(平成6年)死去。

没後

2024年令和6年)、寅彦が生前、昭和天皇から下賜された硯箱を遺族が沼津市に寄贈した[* 1]。遺族の意向で国立歴史民俗博物館准教授福岡万里子日本大学教授髙澤弘明が調査したところ、昭和天皇成婚時に小林武治静岡県知事が沼津御用邸西附属邸の正門などをモチーフにして六角紫水に造らせ献上したものと判明した[* 1]。9月5日、遺族および調査した福岡・髙澤のもと寄贈式が行われ[+ 1]、10月1日から10月31日まで沼津御用邸記念公園西附属邸で一般公開された[+ 2]

著作

  • 『昭和天皇と私:八十年間お側に仕えて』学研、1992年。ISBN 4-05-106218-X 

栄典

位階

勲等・勲章

記念章

系譜

『人事興信録』第12版下, p. ナ148および『人事興信録』第14版下, p. ナ135を参照。

演じた人物

脚注

参考文献

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