泣塔
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全高203センチメートルの伊豆石製で、塔身や基礎の部分は典型的な「関東形式」の特徴を持つ。塔の背後にやぐらがあり、中には朽ちて一部しか残っていないものも含めて14基の五輪塔が建つ。
泣塔は、非常に形が整っていること、隅飾や基壇部の四隅にある凸部の形状が珍しいこと、基壇部に刻まれた銘が明瞭に残っていることなどの特徴があるため、「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」に基づき、1933年(昭和8年)8月23日付け「深沢文和五年銘宝篋印塔」名義で重要美術品に認定された[3]。同法は1950年(昭和25年)8月29日に文化財保護法が施行されたことを受けて廃止されたが、同法によって認定された物件の認定効力は、文化財保護法附則の規定によって継続している。加えて1971年(昭和46年)9月11日には「石造 宝篋印塔(文和五年銘)」名義(所有者:鎌倉市)で鎌倉市指定有形文化財となった[1]。
2019年夏の豪雨でヤグラの崖が崩れ、安全の為、フェンス内の立ち入りはできない。
2026年現在、泣塔の建つ岩石が木々の根に浸食され、崩れる恐れがあるとし、岩の上周辺の木々を伐採。今後、2028年までに鎌倉市文化財課により保全方法を検討[4]。グーグルMAP上からは意図的に泣塔の名称や履歴が削除されている。(2026.4)
名称の由来
歴史
1933年(昭和8年)に調査を行った際、基壇部に以下のとおりの銘文が発見された。
このことから、南北朝時代中期にあたる文和5年2月20日(ユリウス暦換算:1356年3月22日)に造立されたものと推測される。塔の正式な由緒は不明であるが、鎌倉時代末の元弘3年5月(ユリウス暦換算:1333年6月頃)に新田義貞軍が鎌倉を攻めた際の一局面である洲崎合戦(cf. 鎌倉の戦い#小袋坂(巨福呂坂))の古戦場(洲崎古戦場)が付近にあること[* 4]、および、塔の背後に櫓があることから、櫓に葬られた戦死者を周辺住民が弔うために造立した塔と見られている[5]。銘文のとおりであれば、二十三回忌の追善法要の際に建てられたことになる。
造立されてのちの塔の歴史についてもまた、ほとんど何も分かっていない。しかし、いつの頃からか、泣塔にまつわる不吉な言い伝えが流布されるようになった。泣塔が建つ土地を所有した者は貧乏になる、泣塔を目にした者は後日幽霊と出遭う、祟りを受ける、などといった類いのものであるが、これらの言い伝えは泣塔周辺を開発から取り残すほどの影響力を持っていた。
1933年(昭和8年)8月23日 、西洋各国に日本の工芸品、美術品、歴史的遺物の流出を防ぐ目的から重要美術品認定の法を定め、石造宝篋印塔 俗称「なき塔」が認定された[3]。
1934年(昭和9年)6月24日、「鎌倉ー史蹟めぐり会記録」によれば、赤星直忠博士他数名が踏査を行った。「赤星ノート」には、泣塔の写真と共に泣塔の建っている土地の所有者名、通称名について「泣キ塔ト称ス」と明記。 当時の伝承で「何時ノ頃カ手広青蓮寺住職ノ求メニヨリテ 寺内ニ移シタルニ夜々泣キテ(夢枕ニ立チタルカ)帰ルコトヲ望ミタレバ之チ 旧地ニ復シタレバ泣クコト止シタリトイフ」と記録あり。(神奈川県立歴史博物館ー赤星直忠考古学研究資料 第5冊 目次 通称赤星ノート 目次5 泣塔銘[6])「鎌倉ー史蹟めぐり会記録」には、「陣出の温泉宿の傍には、有名な泣き塔がある。」「塔の後に矢倉があって五輪塔が数基が立つ。」と書かれていることから、昭和9年現在と同じ場所にあったことが判る。泣塔に向かって左側が陣出温泉あったことも図解から判る。
同年 (昭和9年)出版の「建武之中興」建武中興六百年記念会神奈川県支部 編 建武中興六百年記念会神奈川県支部 によれば、「深澤の郷洲崎の荘」が「深沢村字上町屋付近」、「陣田(じんでん)といふ字がある。」と書かれてある。 陣出の誤りと思われる。「(前略)鎌倉軍が陣を張ったところであるから、其名が起こったと傳(つた)へられて居る。その左の岩石の上によい形の塔がある。泣塔といふ。年號をみるに、文の下が和といふ字らしく見える。文和であれば、義貞の戦争からから二十年許後となる。供養の為に建てたのではないかと思はれる。」
1943年(昭和18年)、周辺の土地が大日本帝国海軍に買い上げられ、横須賀海軍工廠深沢分工場が造営されることになったが、その際、泣塔周辺(陣出)も建設予定地に含まれており、泣塔は周りの丘ごと削平される予定であった。しかし、古くからの言い伝えを知る周辺住民はこれを思い留まるよう要望した。また、塔の撤去作業中にたびたび怪我人が出たことや、付近の工事現場で死者5名を数える事故が起きたこと、夜中に異様な音が聞こえるなど、凶事・変事が様々に起きたことから、ついには当局も泣塔の破却を断念し、この一角(陣出)だけは手を着けることなく建設予定地の脇にて旧態地形のまま保存され、周辺住民によって供養され続けることとなった。翻れば、周辺にあった他の古戦場由来地はほとんどがこの時期に削平されてしまって現存しない。
第二次世界大戦後、横須賀海軍工廠深沢分工場の敷地は、1949年(昭和24年)6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)に払い下げられ、車両整備工場として再整備されたが、この際も泣塔については保存の方針が引き継がれ、毎年の創立記念日には供養が行われた。また、1966年(昭和41年)12月1日には、時の工場長の発案で、泣塔の周辺に杉の苗400本が植えられた。
1987年(昭和62年)日本国有鉄道清算事業団(1987-1998)により国鉄大船工場の閉鎖後、地元市民の署名運動が起き、1996年(平成8年3月) 旧国鉄清算事業団用地の取得を開始、泣塔を含むその周辺が鎌倉市へ払い下げられた。
2018年3月25日 泣塔クラブ(現鎌倉泣塔クラブ)前代表岩壁孝と地元有志のメンバーにより「泣塔を供養する会」を発足、慰霊祭を開催[7]。
文化財情報
- 泣塔(なきとう)
- 重要美術品認定
- 最初の記録:官報1933年8月23日 認定名称:石造宝篋印塔 俗称「なき塔」(せきぞう ほうきょういんとう ぞくしょう なきとう)。所有者:内海信太郎 所在地:神奈川縣鎌倉郡深澤村
- 文部省認定重要美術品目録(1937年〈昭和12年〉時点):認定名称:同上。所有者:坂田武雄。所在地:同上
- 認定名称(1943年〈昭和18年〉時点):同上 [8]
- 認定名称(現在):深沢文和五年銘宝篋印塔(ふかざわ ぶんなごねんめい ほうきょういんとう)
- 認定日:1933年(昭和8年)8月23日。員数:1基。所有者:(無記)。所在地:神奈川県鎌倉郡深沢村[8]。
- 鎌倉市指定有形文化財 - 指定名称:石造 宝篋印塔(文和五年銘)(せきぞう ほうきょういんとう ぶんなごねんめい)
拝観
かつてはJR大船工場の敷地内であったため、この塔を拝観するにはJRの許可が必要であったが、2001年(平成13年)に鎌倉市が周囲の敷地と合わせて取得したため、JRに許可をとる必要はなくなった[2]。
2020年(令和2年)現在、泣塔が立っている土地は鎌倉市の所有地となっており、まちづくり計画部深沢地域整備課深沢地域整備担当の管理地であるが、泣塔の周辺はフェンスで囲われており、フェンスの入り口の鍵は鎌倉市文化財部文化財課が管理している。拝観希望者は市役所で鍵を借りる必要がある。月に1回、市民の有志「鎌倉泣塔クラブ」により清掃活動が行われており参加は自由なため、その際に拝観が可能である。
現在は、2019年豪雨の影響で、参拝はフェンスの外からのみとなっている
