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滝川辰政

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滝川 辰政(たきがわ ときまさ[8]/たきがわ たつまさ[9])は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将通称は七郎、内記、丹波、出雲[3]

生誕 天正3年(1575年[1]
別名 七郎、内記[2]、丹波[3]、出雲[4]
概要 凡例滝川 辰政, 時代 ...
 
滝川 辰政
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正3年(1575年[1]
死没 慶安5年7月18日1652年8月21日[1]
別名 七郎、内記[2]、丹波[3]、出雲[4]
主君 織田信包豊臣秀勝浅野長政石田三成小早川秀秋池田輝政利隆光政[5]
岡山藩姫路藩鳥取藩→岡山藩
氏族 滝川氏
父母 父:滝川一益
兄弟 一忠一時辰政、知卜斎[6]
宗次、求馬[7]
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生涯

天正3年(1575年)、滝川一益の子として誕生した[4][9]。末子とされるが[3]、弟に鳥取藩に仕えた滝川家の祖・知卜斎を置く系図もある[2]

天正11年(1583年)に父が賤ヶ岳の戦い柴田勝家に味方して所領を失い没落した後、越前国を領した丹羽長秀養子として引き取られた。天正13年(1585年)、長秀の後を継いだ丹羽長重が大幅に所領を削られて加賀国松任に転封の処分を受けた際に富田一白豊臣秀吉に取りなして兄の一時とともに伊勢国津城織田信包に仕えた[1]

天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐で信包に従って16歳で初陣[4][9]児小姓の番母衣衆として韮山城、次いで小田原城の包囲戦に参加した[1]湯浅常山の『常山紀談』には、この時のこととして、信包が織田信雄に面会するために護衛を遠ざけ辰政のみを供に連れて歩いていた際に北条方から鉄砲を撃ちかけられたが、辰政は身を挺して信包の矢面に乗り塞がり、母衣に弾丸3発を受けながら守り切ったため、信包より大いに賞されたと伝えている[8]

天正20年(1592年)、文禄の役に動員された信包に従って備前国まで下ってきたところで同輩と喧嘩をして出奔し、父の旧臣津田元綱の縁故を頼って美濃国岐阜城豊臣秀勝の軍に加わって朝鮮に渡海した。間もなく秀勝が病死してしまったため軍監浅野長政の指揮下に入り、文禄2年(1593年晋州城の戦いで落城時に城内に突入する戦功を挙げた[10]

帰国後、石田三成に仕えたが、慶長5年(1600年)2月に辞去し、4月に小早川秀秋に仕えた[5]。同年9月の関ヶ原の戦いでは秀秋に従って松尾山に陣取り、小早川軍が劣勢の際には押し返し、大谷吉継に攻めかかった際には槍を取って敵兵を突き崩す戦功を挙げた[3][4]

関ヶ原の戦いの後、小早川家は岡山藩に加増転封されたが、辰政は間もなく岡山藩を退去した[5]。『備前軍記』は秀秋の政治が乱れて家臣の出奔が相次ぐようになり、辰政も退去しようとしたためこれを押し留めようと鉄砲頭が足軽を連れて屋敷の門を固めたが、辰政はすでに女物の乗物に乗って逃げ出した後であったという話を伝える[11]

慶長6年(1601年)、辰政が浪人となったことを津田元綱から聞きつけた姫路藩池田輝政の重臣荒尾成房の取りなしで池田家に仕官し、2000石を与えられて番頭となった[4][5][9]。慶長17年(1612年)には輝政から翌春に淡路岩屋城を預けるべき旨の内命が出されたが、翌18年(1613年)1月に輝政が死去したため実現しなかった[4][12]

慶長19年(1614年)、第2代藩主池田利隆に従って大坂冬の陣に出陣し、神崎川の一番越しを果たした。このとき、利隆の異母弟(母は徳川家康の娘督姫)である岡山藩主池田忠継が中津川(現在の淀川本流)を渡って敵中に深入りしていたため、利隆は追って渡河し救援しようとしたが、江戸幕府から派遣されていた軍監が幕命を盾に姫路藩兵の渡河を押し留めた。利隆の傍にいた辰政は「忠継は家康の愛孫にして利隆の弟である。もし彼が敗死すれば利隆は家康の孫を助けず、自らの弟を見殺しにしたことになって面目を失うではないか」と反論し、姫路藩兵を渡河させたので、大坂方は戦わずに撤退した。家康はこのことを聞き、戦機に進軍しようとしなかった軍監をかえって罰したと伝わる[4]。利隆は大坂の陣における辰政の進言がことごとく戦機にかなっていたことを称賛し、辰政に1000石を加増して合計3000石とし、鉄砲足軽30人を預けた[5][9][12]

利隆の死後、3代藩主池田光政に仕えて元和3年(1617年)の鳥取藩への移封に従うが[5]寛永3年(1626年)、鳥取藩を退去して浪人となった。光政の岡山藩への移封後の寛永11年(1634年)に、将軍徳川家光上洛に供奉した光政に京都で召し返され、再び光政に仕えた[13]

慶安元年(1648年)、屋敷に藩主光政の御成を迎え入れて御前で家督を子の宗次に譲り、隠居することを許され、隠居料200俵を与えられた[4][5][9]。またこの年に末子の求馬も近習に召し出されて500石を与えられている[7]

慶安5年(1652年)死去。享年78[4][5][9]

宗次・求馬兄弟の子孫は岡山藩士として幕末まで続き、明治維新後に滝川事件で有名な刑法学者の瀧川幸辰が出ている[14]

脚注

参考文献

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