片岡光綱
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高岡郡黒岩を本拠とする国人・片岡茂光(または直光[1][2])の嫡子として生まれる[7][注釈 1]。
父・茂光(直光)は長宗我部国親の妹を娶るなど、早くから長宗我部氏と関係を築いていたという[1][4]。永禄2年(1559年)、片岡氏は国親の妹の子で光綱の異母弟の直季を大将として、吾川郡上八川を攻略した[9]。翌永禄3年(1560年)に茂光が死去し、その後光綱は吾川郡徳光郷に本拠を移している[10]。
元亀2年(1571年)、長宗我部元親の西進に伴い、それまで独立した立場にあった光綱は元親に服属した[1]。高岡郡東部では片岡氏の他に津川郷の中村氏や尾川郷の近沢氏も元親に降っているが、片岡氏の得た領地は他の2氏に比べて大きく、高岡郡中部の有力国人・津野氏と同等の所領を持っている[11][注釈 2]。このことから、この地域における長宗我部氏への服属過程において片岡氏が中心的な役割を果たしたとみられている[11]。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐が行われた[1][13]。同年7月、光綱は伊予国金子城に援軍として赴き、豊臣方の毛利・小早川軍と戦って討死したとされる[1][14][注釈 3]。
なお、この時光綱が戦死したとの説に対し、『佐川町史』では異論が唱えられている。片岡氏の出自について諸説ある中で『土佐国蠧簡集』の編者・奥宮正明は片岡氏の本姓を壬生氏としているが、16世紀に作成された神社の棟札には実際に壬生茂光や壬生光綱、壬生親光の名があり、その中には文禄4年(1595年)の日付で壬生親光の名が記されたものが見られる[18]。また、片岡光綱と考えられる「親光」が発給した文禄5年(1596年)の書状も確認されている[18]。これらのことから、天正13年(1585年)に戦死したのは光綱(親光)とは別の片岡氏の有力支族とされている[19][注釈 4]。