狩野氏は藤原南家工藤氏の流れをくむ豪族で、狩野の苗字は伊豆の狩野荘を本拠としたことに由来する。狩野道一は、その総領家の末裔だと考えられ、当時伊豆にとどまり堀越公方となっていた足利政知に仕えたと思われる[1]。
延徳3年(1491年)、政知が病死するとその子の足利茶々丸と足利潤童子との間で堀越公方の家督争いがおこり、茶々丸が潤童子とその母の円満院を殺害し、家督を継承した。道一はこの時の動向は不明だが、その後、茶々丸に従ったとみられる[1]。その後、明応2年(1493年)、今川氏親の客将であった伊勢宗瑞が茶々丸のいた堀越御所へ攻撃を仕掛け、陥落させた(伊豆討ち入り)[1]。この時、多くの軍記物では茶々丸は自刃したとされるが、実際は逃走に成功しており、中・南伊豆の狩野道一、関戸吉道をはじめとする国衆とともに抵抗をつづけた[1][2]。
道一は本拠であった狩野城を中心に抵抗を行った。しかし、明応4年(1495年)までに伊東の伊東氏、明応5年(1496年)までには雲見の高橋高種、妻良の村田氏、大見の大見三人衆(佐藤藤左衛門尉、梅原六郎右衛門尉、佐藤七郎左衛門尉)などが宗瑞に臣従するなど、徐々に茶々丸を支持する勢力がそがれていった[1][2]。明応5年(1496年)、伊東祐遠が道一に降伏を働きかけ、その功績として、宗瑞から伊東七郡の一つであった本郷村を与えられた[1]。明応6年(1497年)、雲見の高橋高種が狩野郡での戦いで功績を上げ、宗瑞から恩賞を与えられている[1]。
明応6年(1497年)、道一は反転攻勢を開始した。これは、小田原城を拠点にしていた大森氏が扇谷上杉氏から山内上杉氏に服属したことで、宗瑞と大森氏が敵対したことによると推測される[1]。道一は修善寺近くの柏久保城に在陣していた宗瑞方の軍に対し、攻撃をしかけた。しかし、宗瑞方の大見三人衆が救援として駆けつけ、軍事拠点を構築し、道一に攻撃をしかけ、道一を撤退させた(柏窪合戦)[1]。この功績により、大見三人衆は宗瑞から、大見郡の課役の免除が行われ、大見郡の宗瑞の直轄領40貫余を除く領土を大見三人衆のものとした。また、同年7月には道一は伊東郡へと進軍し、そのことを大見三人衆が宗瑞に報告した[1][2]。同年12月の宗瑞が大見三人衆に宛てた文書で、長年にわたる大見郷での籠城を賞賛しており、道一からの攻撃を少なくとも昨年から受け続けていたことが推測される[1]。
明応7年(1498年)正月、道一は国清寺で自刃し、狩野一族は宗瑞に降伏した。これにより、宗瑞は中伊豆の制圧に成功し、残る敵は関戸吉信を残すだけになった[1][2]。戦後、狩野氏の娘(善修寺殿)が宗瑞の別妻に迎えられ、その間に北条幻庵が生まれた[1]。また、狩野一族は小田原へ移住させられ、狩野泰光などが後北条氏家臣として活躍していくことになる[2]。