甲府空襲
1945年7月6日~7日に、山梨県甲府市が受けた空襲
From Wikipedia, the free encyclopedia
概要
7月6日深夜から7月7日までの間に、甲府市、西山梨郡玉諸村、西山梨郡山城村、西山梨郡住吉村、西山梨郡甲運村、中巨摩郡昭和村、中巨摩郡玉幡村、中巨摩郡竜王村、中巨摩郡池田村、東八代郡石和町、東八代郡柏村、東八代郡富士見村、東山梨郡岡部村、東山梨郡春日居村、東山梨郡神金村がアメリカ軍爆撃機B-29(米軍任務番号第245号、任務報告書によれば第314爆撃団より138機出撃、第一目標への到達131機、ほかに臨機目標1機)による大規模空襲を受けた。
同年7月7日時点で行われた甲府市戦火状況調査書に拠れば、死者740名、重軽傷者1,248名、行方不明者35名、被害戸数18,094戸[1]。 甲府市は市街地の74%(79%とも言われる)が灰燼に帰した[2]。
空襲前中の流れ
空襲直前
第二次世界大戦において日本軍が劣勢になるなか、昭和19年にはアメリカ軍による本土空襲が本格化し、東京大空襲をはじめ日本の主要都市は空襲により壊滅していた。甲府盆地は南太平洋から富士山を目標に到達するアメリカ軍機の飛来ルートであったため、頻繁に上空を通過するアメリカ軍機と空襲警報に人々はすっかり慣れきっていたという。5月19日に長野方面へ向かうアメリカ軍機が峡西や峡南区域の山中に空爆を行っており、また同年5月から6月にかけては空爆を予告するビラの撒布が行われていた[2]。
昭和20年3月に防空本部が設置され、山梨県知事と甲府市長の指揮下に防空体制を指導。防空壕の建設も通達されたが、甲府盆地では地盤が固く、扇状地では地下水が湧くため困難でもあった。アメリカ軍機が進入してきた際の小規模な防空訓練も行われており、内容は甲府連隊の高射砲隊と機関銃隊が敵部隊を迎撃するという訓練であった。また、民間防空団体が発足し、各地で防空訓練が行われた。主な訓練内容は「バケツリレーによる消火訓練」であり、この訓練が日常化し、山梨県民は「焼夷弾はバケツで消せる」「銃後の守りは完璧」と確信したという[2]。
また、空襲の前日まで甲府市上空にはB-29の編隊が幾度と無く東へと飛び去る姿が目撃されている。制空権はすでにアメリカが握っており、東京大空襲から逃れてきた民間人が多数甲府市に疎開して避難していたこともあり、当時の甲府市民の多くは「アメリカ軍は甲府の上空を通過するだけ。ただの通り道である以上、空襲は無いだろう」と判断していたという[2]。
空襲前日の7月6日、山梨日日新聞には以下の記事が掲載された。
背後に山を負った甲府だ。戦国時代、人を城や石垣の天然の城壁になぞらえて、城郭を築かなかった信玄も、躑躅ケ崎背後の自然の天嶮には人間と同様大きな信頼感を持ったものらしい。その自然の山岳形象が、敵機爆撃にも相当の味方として従えていることは一つの強味であるともいえる。— 『山梨日日新聞』1945年(昭和20年)7月6日「銃座」欄[2]
山梨日日新聞の読みは盆地という地形に限ればある意味正しいものであったが、甲府の場合「背後に山を負っている」という条件が逆に裏目に出ることになる[2]。(後述)
空襲当日
7月6日午後11時23分頃、マリアナ基地から発したB-29爆撃機200機余りのうち80機が駿河湾を北上しているとして空襲警報が発令された[2]。この時の様子を甲府から南に20km離れていた穂積村(現在の富士川町)に疎開していた月光原国民学校(現在の目黒区立月光原小学校)の訓導によって以下の通りに記されている。
7月6日、七夕祭の支度を終えて一同寝についた。午後11時過ぎ薄気味悪い空襲のサイレンは、山々にこだまして鳴りひびいた。今夜は何となく今までにない不安を感じた。学寮の子供たちには直ちに非常起床を命じ、身支度をととのえて待機させた。B29の爆音は連続的に山の彼方から闇の中にきこえて来た。ことによると今夜は甲府にでも落すのではないかと、予感がますます強くなってきた。第一梯団は鰍沢上空を通過したと思う瞬間、急に北東の空が明るくなった。ああやられたなと感じた。甲府方面は方々に火災を起していた。— 東京都月光原小学校編『学童疎開の記録』[2]
月光原国民学校は穂積村に疎開していた生徒については無事であったが、甲府市内にある遠光寺の学寮にいた30名余の病弱児童が空襲に遭い、2人が死亡したと記されている。以下は遠光寺住職が寄せた文である。
私の感じでは、甲府の空襲は、まだ、二、三日の間があると思った。(中略)「おれについてこい!」と、誘導した。その途中で、また焼夷弾が落ちた。「伏せろ!」と声をかけた。私は背中へズシッと感じた。「やられたな」と思ったが、それは振動を受けただけだった。敵機が頭上を去ったので「それ立て!それ行け!」とこれも農園へ退避させた。これで、預った責任のある人命は全部助けた。(中略)かれこれするうちに本堂はすっかり火に包まれていた。学童退避の際、私が背に衝撃を感じたときに、私のすぐ後に続いた、原潤君と中村和ちゃんが即死したのだろうか。「アッ」とも「ウン」とも声は聞かなかった。— 東京都月光原小学校編『学童疎開の記録』[3]
また、『山梨県政60年誌』(1952年刊行)の中で、市内の警備に当たっていた警防職員は以下の手記を残している。
爆音が聞えたので屋上望楼に上って見ると、誘導機はまず市の北部愛宕山に照明弾を投下、全市がパーツと真昼のように明るくなった。第一回攻撃は市北部塚原町方面山腹から人家にわたって行なわれ早くも一ケ所が炎上した。第二回攻撃は愛宕山から愛宕町及び市東部より東南部にかけて行なわれ、金手・東青沼・愛宕町から炎々たる火の手が上り、市内は火焔のためその全貌が認められた。そこで本格的空襲必至と見て、午後11時50分、全老幼病市民の待避命令が発せられた。11時57分敵の爆撃いよいよ激しく、東東南から中央にかけて、西西南、北西、西方に火災発生、電話電燈線不通。7日午前零時、市役所・知事官舎炎上。周囲は火焔と黒煙で全市の見透しつかず、攻撃いよいよ猛烈、爆音、焼夷弾の落下音、破裂音は耳をつんざくばかり、午前1時県病院炎上、道路の開いているのは甲府署と県庁間のみ。午前1時45分、焼夷弾攻撃止む。しかし火勢はますます猛烈となる。— 山梨県政60年誌[2]
甲府市防空本部の発表では午後11時54分に空襲警報が発令したとされているが、実際はこれより早く空襲が始まっており、山梨県政60年誌をはじめとした資料で以下の通りであったとされている。
- 午後11時43分頃、焼夷弾13発が相川地区塚原町慶音院に投下される。
- 午後11時45分頃、2度目の空襲警報が発令される。
- 午後11時47分頃、愛宕山に照明弾が1発投下される。
- 午後11時50分頃、焼夷弾を用いた絨毯爆撃が甲府市全域において開始される。
- 7月7日午前0時頃、知事官舎及び甲府市役所が炎上。
- 午前0時30分頃、山梨医専附属病院が炎上。
- 午前1時45分頃、空爆停止。
- 午前2時20分頃、空爆警報解除。
投下された焼夷弾の量は970.4トンとされており、使用された焼夷弾はM47油脂焼夷弾が主で、M50エレクトロン焼夷弾もわずかながら混ざっていた[2]。
空襲後
被害状況
空襲後の甲府市は、市街地の74%が灰燼に帰した。鉄筋コンクリート造の建物は焼け残ったが、他は見渡す限り焼け野原で、至る所に死体が転がっていたという。1974年(昭和49年)7月に行われた調査では、死者は1,127名(男性499名、女性628名)、負傷者1,239名、被害戸数18,094戸となっている[4]。特に湯田地区(南甲府駅から見て北西エリア)の被害が大きく、全体の4割にあたる427人が亡くなっている[5]。
東部軍管区司令部は甲府をはじめとした6日から7日にかけての空襲について以下の通りに発表している。
甲府・千葉の両市は敵焼夷弾攻撃により火災発生を見たるも、7日払暁までに概ね鎮火せり。その他2・3の小都市に対し焼夷弾投下ありたるも、損害極めて軽微なり。— 東部軍管区司令部 1945年7月7日発表[2]
焼失した主な施設は以下の通り[2]。
| 施設名 | 現在の施設 | 備考 |
|---|---|---|
| 相生国民学校 | 甲府市立鶴舞小学校 | 甲府市立相生小学校を経て2012年(平成20年)に春日小学校、穴切小学校と統合。 |
| 山梨栄和高等女学校 | 山梨英和中学校・高等学校 | 1958年(昭和33年)に栄和から英和に変更。 |
| 春日国民学校 | 甲府市立鶴舞小学校 | 甲府市立春日小学校を経て2012年(平成20年)に相生小学校、穴切小学校と統合。 |
| 勧業銀行甲府支店 | みずほ銀行甲府支店 | |
| 名古屋鉄道局甲府管理部 | 鉄道省の管理部。 | |
| 甲府高等女学校 | 山梨県立甲府西高等学校 | 山梨県立甲府第二高等学校を経て共学化のうえ現校名。 |
| 甲府市役所 | ||
| 甲府商業学校 | 甲府市立甲府商業高等学校 | |
| 甲府測候所 | 甲府地方気象台 | |
| 商工経済会山梨支部 | 甲府商工会議所 | |
| 新紺屋国民学校 | 甲府市立新紺屋小学校 | |
| 琢美国民学校 | 甲府市立善誘館小学校 | 甲府市立琢美小学校を経て2011年(平成19年)に富士川小学校と統合。 |
| 山梨県立医学専門学校 | 山梨県立高等学校を経て1951年(昭和26年)廃校。 | |
| 山梨医専附属病院 | 山梨県立中央病院 | |
| 山梨工業専門学校 | 山梨大学工学部 | |
| 山梨師範学校男子部 | 山梨大学人間科学学部 | |
| 山梨中央銀行 | ||
| 山梨日日新聞社 | ||
| 甲府動物園 | 甲府市遊亀公園付属動物園 | ゾウやライオンは空襲前に死んでおり、残った動物も動物園と共に火に包まれた[6]。戦後は民間に貸出されていたが、1952年(昭和27年)に再び甲府市に再び移管されて再開園。 |
| 湯田高等女学校 | 甲斐清和高等学校 | 湯田高等学校を経て現校名。 |
| 湯田国民学校 | 甲府市立湯田小学校 | |
被災処理と復興計画
空襲当時山梨県知事であった中島賢蔵と甲府市長であった野口二郎は空爆翌日に善後対策の打合せを行ない、食糧配給や死体処理について協議した。食糧配給についてはすぐに市費による炊き出しや臨時配給が実施され、2週間後には空襲前の配給状況まで復旧した。一方で死体処理については困難を極め、死者数も当初は740人とされたが死体処理をしていくうちに833人に増え、1974年の調査で大幅に上積みされるなど正確な数値が長らく把握できない状況であった。空襲で急行状態であった甲府市内の国民学校は20日に再開し、25日には県庁広場で戦災殉難者慰霊祭を催行している[2]。
8月15日に太平洋戦争が終結し、9月には甲府市に戦災復興局が設立。山梨県と甲府市は戦災復興都市計画を策定し、道路整備や住宅復興することとなる。
計画当初は道路整備について抜本的な見直しを行ない甲府駅から南に
なお、当初の計画では以下のような道路計画が立案されていた[7]。
- 幅員50m以上60m未満:1路線(広路1号線。現在の平和通り)
- 幅員35m以上50m未満:2路線(現在の美術館通りなど)
- 幅員30m以上35m未満:2路線
- 幅員22m以上26m未満:7路線
- 幅員18m以上22m未満:11路線
- 幅員15m以上18m未満:4路線
- 計画地区内における道路面積率:27.4%
住宅整備も並行して行われ、資金資材難からなかなか復興が進まなかった状況であったが、市は廃止となった住宅営団の施設を接収し、1949年(昭和24年)には集団住宅に一本化して復興の迅速化に努めた。1951年(昭和26年)までに建設された戸数は2,019戸に及び、規模も当初は6坪程度の緊急住宅であったものから9~12坪の住宅へと充実させていった[2]。
その他電気、水道、電話などの整備も行なわれ、資材不足もあったが電気は1946年(昭和21年)、水道は1949年(昭和24年)までに復旧を完了。電話も1950年(昭和25年)年3月までには利用者数を罹災前も状況まで回復させている[2]。
焼失を免れた建物・施設
罹災地でありながら焼失を免れた、または罹災したが外観は残ったため復旧した建物・施設も存在する。
現存する建物・施設
- 罹災地内にあったが甲府城址に隔てられたおかげもあり焼失を免れている。
- 県庁舎は1963年(昭和38年)に新庁舎が竣工後も別館となったが、議事堂と共に現在も当時の面影を残したまま使用されている。罹災地である甲府市中心部では数少ない戦前からの建築物になっている。
- 南銀座仲町ノ稲荷社
現存しない建物・施設
- 当時は山梨県庁舎の敷地内にあったことから焼失を免れている。
- 1970年(昭和45年)に図書館が移転した後も県庁舎第一南別館として使用され、防災新館建設の際も存続が検討されたが耐震性の問題により2009年(平成21年)に解体された。
- 甲府駅(二代目駅舎)
- 1903年(明治36年)開業時に建てられた初代駅舎が1924年(大正13年)に失火焼失したのを受け、1925年(大正14年)に木造平屋で二代目駅舎が建てられた。罹災地域にあったが焼失を免れ、すぐに営業を再開している。
- その後も空襲前の状態をほぼ残していたが、1986年(昭和61年)に開催されたかいじ国体を前に駅ビル化(現在のセレオ甲府)が決定し、二代目駅舎は解体された。1番線ホームに甲府駅開業時から存在・使用されていた釣鐘や跨線橋柱、煉瓦倉庫の一部が展示されている。
- 1936年(昭和12年)に鉄筋コンクリート造5階建ての建物として竣工。空襲で内部を全焼したものの外観は留めており、竣工時の建物構造のまま修復。戦後は増床や改築を行ないつつも罹災した建物も改装のうえ使用されていた。2023年2月に移転閉店し、解体工事の際に黒焦げになった部分が確認されている[8]。
- 岡島百貨店同様内部を全焼したものの外観は留めている。戦後は山梨日日新聞の印刷所を経て甲府松菱となった。
- 甲府松菱が1963年(昭和38年)に甲府駅前に移転[注 1]後も雑居ビルとして使用され続けてきたが、老朽化を理由に2005年(平成17年)に解体され、2007年(平成19年)よりホテル(ドーミーイン)になっている。
- 甲府市水道庁舎
- 1938年(昭和13年)に鉄筋コンクリート造、地上3階建の庁舎として錦町に竣工。空襲の被害を免れたため、相生町に存在し全焼した市庁舎(2代目庁舎)を罹災後ただちに甲府市役所庁舎(3代目庁舎)として使用した。市役所庁舎化後は増築を繰り返し、「ムカデ庁舎」と呼ばれていた。
- 1961年(昭和36年)の新庁舎(4代目庁舎)竣工後も市役所西庁舎(現在ある西庁舎とは別)として使用されたが、1995年(平成7年)に老朽化と駐車場スペース確保のため解体された。
- 甲府郵便局(現在の甲府中央郵便局)
特徴・逸話
空襲の理由
14歳の時に被災し、両親を失った一般市民は「軍事工場や飛行場がない甲府市がなぜ空襲にあったのか」と不思議に思い、個人的に資料収集を行ない、また退役軍人のコミュニティに入り当時の搭乗員から話を聞くなどした。すると「当日の爆撃ミッションに参加した[注 2]が、重要なことは起きなかった」「特に覚えていない」との回答を得たことで「甲府空襲は戦争が長引く中で明確な目的や意思のないまま行われた」と述懐している[9]ほか、これをもとに「軍事施設がない甲府に無差別爆撃が行なわれた」を強調するイベントが開催されている[10]。
しかし、実際は甲府市内の罹災地域に鐘淵紡績(その後カネボウを経て現在のクラシエ)の甲府兵器工場[注 3]と地元ワインメーカーであるサドヤのロッシェル塩醸造所[注 4]、村松時計の軍需工場[注 5]があり、また甲府市街地から近い西八幡(現在の甲斐市)の甲府競馬場跡地に玉幡飛行場および立飛企業の甲府製造所が設置された[14]ほか、分散のため飯野村および源村(現在の南アルプス市)にも御勅使河原飛行場が建設されたとの資料がある[15]。これらは民間施設に偽装されるなど秘匿され[注 6]、一般市民には軍事目的であったことが知られていなかったが連合国軍側には特定されていた可能性が高く、1945年7月7日付のニューヨーク・タイムズでも甲府市内の施設について詳細に記載されている[2]。
また、1945年7月21日に米軍陸軍第20航空部隊が報告した『中小工業都市地域への爆撃リスト』では甲府市の順位はリストアップされた180都市中45位と高く[注 7]、また甲府市より上位の都市で大規模空襲を免れたのは数都市だけであった[注 8]ことから、甲府への空襲は必然的であったこともうかがえる。
特殊条件での空襲

画像中央が愛宕山山頂。画像でもわかるように愛宕山が左下にある甲府城や甲府駅の近くまでせり出していることがわかる。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成
甲府空襲が特殊である内容として盆地内における夜間戦略爆撃が挙げられる。B-29による絨毯爆撃はレーダー照準爆撃が主となっており、これにより夜間においても精密な爆撃が可能であったが、地形効果によりレーダー爆撃照準器が正しく機能せず一部では目視爆撃が可能な昼間・晴天のみ、または進路の制約を受けることもあった(先述の『中小工業都市地域への爆撃リスト』でも地形の問題で爆撃が制限されていた都市がいくつかある)。特に盆地内にある都市は(軍事施設や工場の少なさもあるが)地形効果が大きく、松本市(松本盆地)や山形市(山形盆地)、奈良市(奈良盆地)のようにほとんど空襲を受けなかったケースや、あっても長野市(長野盆地、長野空襲)[16]や盛岡市(北上盆地、盛岡空襲)[17]。のようにロケット弾や機銃掃射に留まったケースがほとんどで、4月12日に郡山市(郡山盆地、郡山空襲)で絨毯爆撃が行なわれもののこちらは昼間であり[18]、夜間に行われたのは甲府のみである。
甲府が夜間の絨毯爆撃が可能だった理由として都市が北側に寄っており南から侵入した場合狙いを定めやすいこと、また愛宕山が市街地にせり出すように迫っており、ここに照明弾を投下すれば愛宕山に着地後も長時間にわたり市街地全体を照らすことが可能だったことが挙げられる。実際山梨県政60年誌でも「真昼のように明るくなった」との記述があることから目視爆撃も可能な明るさが確保できていたと推測される。
一方、先述の山梨日日新聞の記事でもあったように「山に囲まれた甲府は爆撃されない」という過信が蔓延しており、空襲当日も玉幡飛行場から迎撃機が飛ぶことはなく、甲府連隊による高射砲の迎撃もなかったと記されている[2]。東京方面との往来を続けていく中で甲府の地形を把握して夜間戦略爆撃を行なった連合国軍と、完全に油断していた日本側の差が甲府の被害を拡大させたともいえる。
警防団の活動
太平洋戦争開戦前の1939年(昭和14年)1月には警防団令(勅令第20号)が発令され、全国的に警防団が組織された、警防団は防護団と消防組(消防団)を合併して組織された民間防空単位で、山梨県内では同年4月時点で207団体計45000人、当時の甲府市域では6団計5181人の規模で組織されている。
甲府空襲に関する警防団活動の史料として2010年(平成22年)に発見された甲府市新紺屋地区警防団資料があり、町内会における防空活動に関するものとしては『甲府市史調査報告書3 武井家所蔵 戦時中 町内会関係史料』(甲府市史編纂委員会、1992年)がある。
甲府市新紺屋地区警防団資料は平成22年の調査で発見された。資料が伝来した新紺屋地区は現在の甲府市宮前町にあたり、甲府市街の北部に位置する。甲府空襲における被害も比較的軽微な地域で、警防団に関わる貴重な資料が伝来した。同家には他に明治期から昭和期にかけての資料群が伝来し、明治期の俳諧関係資料なども含まれる。平成22年に全96点が山梨県立博物館に寄贈された。
伝来した資料群のうち警防団関係資料は平成22年調査の時点で7点が確認され、警防団が組織された1938年(昭和13年)から解散の年にあたる1947年(昭和22年)にかけての一連の資料が含まれる。内容は団員名簿や当番日記、出動記録、団務記録など。小畑(2011)では個人名などが伏せられた形で一部の資料が翻刻されている。
太宰治・井伏鱒二と甲府空襲
作家の太宰治は1938年(昭和13年)9月に井伏鱒二の仲介で山梨県を訪れ、甲府市水門町(朝日一丁目)に居住していた地質学者・石原初太郎の娘美知子と見合いし、結婚する。翌昭和14年甲府市御崎町(朝日五丁目)で新生活をはじめ創作活動を行ない、太宰中期の代表作を発表している。同年9月には東京三鷹に転居するが、その後も石原家や井伏との関わりから山梨との縁は続き甲府の石原家にはたびたび滞在している。
1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発し、1945年(昭和20年)3月には美知子や子の園子、正樹らと甲府に疎開し、石原家や同じく疎開していた井伏らと過ごしている。7月6日の甲府空襲で石原家は焼失しており、太宰は甲府市新柳町(甲府市武田)の山梨高等工業学校(山梨大学)助教授の大内勇宅に身を寄せた。
1946年11月に発表した「薄明」において大内家に滞在した空襲の記憶を執筆している。太宰はその後、故郷の青森へ再疎開し終戦を迎えている。
太宰の師である井伏鱒二は昭和初年から山梨県を頻繁に訪問し、趣味の川釣りなどを行うほか多くの地元文人らと交流し、山梨を舞台にした作品も多い。井伏は1941年(昭和16年)に陸軍に徴用されシンガポールへ駐在していたが、翌1942年に解除される。1944年(昭和19年)には八代郡甲運村(甲府市和戸町)の岩月家に疎開しており、甲府空襲では被災している。井伏はその後、広島県福山の自宅へ再疎開している。井伏は戦後も山梨県を頻繁に訪問し、俳人の飯田龍太らと交流した。
山梨県内の空襲
山梨県内では甲府空襲の他に以下の空襲がアメリカ軍によって実施されている(いずれも1945年)。
- 5月19日 峡西、峡南地区の山中2ヶ所にアメリカ軍機が爆弾を投下。負傷者数名。
- 6月9日 甲府市国母地区の田圃にアメリカ軍機が爆弾を1発投下。被害なし。
- 7月10日 大月町、猿橋町がアメリカ軍による空襲を受ける。死者1名、重傷者1名、工場1棟が被害を受ける。
- 7月30日 南都留郡下吉田町、中巨摩郡百田村、中巨摩郡鏡中条村、中巨摩郡五明村、中巨摩郡落合村、南巨摩郡増穂町がアメリカ軍による空襲を受ける。死者16名、軽傷者18名、工場1棟半壊、被害戸数6戸。
- 8月1日 北都留郡上野原町、東八代郡芦川村がアメリカ軍による空襲を受ける。工場1棟全焼、被害戸数5戸。
- 8月13日 北都留郡大月町、南都留郡下吉田町、南都留郡禾生村がアメリカ軍による空襲を受ける(大月空襲)。
- 大月も甲府同様軍事施設がないとされていたが、実際は興亜航空工業の軍需工場があり、また陸軍航空本部の第4技術研究所など工場疎開された施設が多かった。
- この空襲で陸軍航空本部第4技術研究所が設置された都留高等女学校(学校は1950年(昭和25年)に合併して山梨県立都留高等学校となった。高等女学校跡地は大月短期大学附属高等学校が使用していたが、2014年閉校。)が爆撃されて女生徒・教師が24名死亡したのをはじめ、死者61名、重傷者48名、罹災者110名、被害戸数33戸、工場5棟が被害を受けている。
