盧程

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盧 程(ろ てい、生年不詳 - 923年)は、末から五代十国時代にかけての官僚政治家本貫范陽郡涿県

経歴

天復元年(901年)、進士に及第した。崔胤が塩鉄を領知すると、盧程はその下で塩鉄巡官をつとめた。昭宗洛陽に遷都すると、柳璨が権勢家たちを陥れたので、盧程は河北に避難し、幽州鎮州を遊歴した。道士の服を着て、節度使たちに面会したが、任用されることはなかった。太原府に赴き、盧汝弼の推挙により晋王李存勗の下で河東節度推官に任じられた。ほどなく河東観察支使に転じた。家柄を誇って口論することが多く、当時の識者には嫌われた[1][2]

ときに王緘が従軍して掌書記をつとめたが、胡柳陂の戦いで王緘が陣没すると、李存勗は張承業に後任の推挙を求めた。張承業は馮道を推した。当時の序列では盧程が掌書記になるものと思われていたため、盧程は憤慨して張承業に泣きついたが、張承業は盧程を叱りつけた。のちに盧程は河東観察判官となった[3][4]

同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が即位するにあたって、四鎮の判官から宰相となるべき者を求めた。ときに盧汝弼と蘇循が相次いで死去しており、盧質に白羽の矢が立った。盧質は高位につくことを望まず、豆盧革と盧程を推挙した。ふたりして同中書門下平章事となった。宰相に任命される日、盧程は肩輿に乗って馬飼いに先導させ、騒ぎ立てた。しばらくして盧程は皇太后を冊立する使者として晋陽宮に派遣された。肩輿に座って険しい山路を往復し、立ち寄った州県では気に入らないことがあると、官吏や民衆に笞打ちを加えた[5][4]

後梁の将の王彦章が徳勝口の南城を落とし、楊劉鎮を攻撃すると、荘宗は苦戦した。後唐の臣下たちはこれを憂慮して、荘宗に軍の先頭に立たないよう宰相に諫言を求めた。豆盧革は高祖が広武で胸に矢を受けながら、足に当たったと言い張った故事に言及した。盧程が「これは劉季の失策である」といったので、人々はみな首を縮めた。盧程は任圜と親しかったが、任圜が荘宗や郭崇韜の怒りを買うと、盧程は盧質に頼って任圜を解放させようとして、右庶子に降格された。荘宗が開封府を平定すると、盧程は荘宗に従って洛陽に赴く道中に落馬した。そのまま中風を病んで死去した。礼部尚書の位を追贈された[6][4]

家族

  • 祖父:盧懿
  • 父:盧蘊[7]

脚注

伝記資料

参考文献

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