真正極楽寺
京都市左京区にある寺院
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真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、京都市左京区浄土寺真如町にある天台宗の寺院。山号は鈴聲山(れいしょうざん)。本尊は阿弥陀如来。通称は真如堂(しんにょどう)。境内にある新長谷寺は洛陽三十三所観音霊場第5番札所。


歴史
永観2年(984年)に比叡山延暦寺の僧である戒算が、夢告によって延暦寺常行堂の本尊である阿弥陀如来を神楽岡東の東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まりである(『真如堂縁起』)[1]。正暦3年(992年)に一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたという。また、一条天皇の勅願所とされている[1]。寺名は「極楽寺と名乗る寺は多いが、ここが正真正銘の極楽の霊地」という意味を込めて真正極楽寺と名づけられた。後に当寺の本堂の通称であった「真如堂」という名称自体が当寺の通称として定着した[2]。
治承・寿永の乱で当寺の堂宇は荒廃したが、貞慶上人の勧進で復興している[1]。
その後、不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。しかし応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱に巻き込まれ、堂塔は焼失した。本尊は応仁2年(1468年)8月3日に比叡山黒谷青龍寺に[1]、次いで文明2年(1470年)3月15日に近江国穴太の宝光寺(穴太真如堂)に避難させた[1]。応仁の乱が終息すると文明10年(1478年)3月26日に一条西洞院(現・元真如堂町)に寺地を改めるが[1]、文明16年(1484年)5月6日には足利義政の命で旧地である神楽岡にもどって再建するようにいわれ、6月1日に帰座。11日には義政より当寺の灯明料として神楽岡東の花園田2町が寄進されている[1]。
明応2年(1493年)8月15日に本堂が再建されるが[1]、永禄10年(1567年)7月2日に足利義昭の命により、当寺は足利義輝の菩提所とされ、室町勘解由小路の義輝邸の跡地に移されることになったが、後に義昭の屋敷がそこに新築されることになったため、永禄12年(1569年)2月30日に新しい寺地として一条通北(現・元真如堂町)に定められ、移転した[1]。しかし、天正15年(1587年)に今度は豊臣秀吉によって聚楽第建設のために京極今出川に移転する[1]。慶長9年(1604年)には豊臣秀頼の寄進によって本堂が再建されている[1]。
寛文元年(1661年)に本堂が焼失する[1]。元禄3年(1690年)に再建されるが[1]、元禄5年(1692年)には再び焼失する[1]。元禄6年(1693年)に東山天皇の勅によって現在地に移転し、再建される[1]。享保2年(1717年)に本堂が完成している[3]。
本尊の阿弥陀如来は「頷きの阿弥陀」とも呼ばれており、慈覚大師円仁が苗鹿大明神で見つけた霊木[1]で一刀三礼にて彫刻したもので、完成直前に「比叡山の修行者の本尊となりたまえ」と言って白毫を入れようとすると、阿弥陀像は首を三度横に振って拒否されたので「では京の都に下って、一切衆生をお救い下さい。中でも女人等を救いたまえ」と言うと、阿弥陀像は三度頷かれたという伝説がある[4]。
三井家の菩提寺で三井高利ら三井一族の墓石が並んでいる。お十夜(浄土宗の重要な仏教行事)は、ここが発祥である。
「日本映画の父」とされる牧野省三が、1908年(明治41年)にシネマトグラフを用いて撮影した初の劇映画『本能寺合戦』は当寺の境内で撮影された。このため、当寺は日本の映画文化が誕生した場所でもある[1]。
近年は紅葉の名所として人気が高まっており、紅葉期は多くの人が訪れるが、普段は静かな寺院である。
安倍晴明蘇生伝説
「真如堂縁起」によると、不慮の死に遭った安倍晴明が閻魔大王の前に引き出された時、晴明の念持仏の不動明王(現・本尊の脇侍である不動明王像)がその場に飛来して命乞いをした。閻魔大王は「是は我が秘印にして、現世には横死の難を救い、未来にはこの印鑑を持ち来る亡者、決定往生の秘印なり。是は汝一人のために非ず。娑婆へ持ち帰り、この印鑑を施し、あまねく諸人を導くべし。」といって、「五行之印(決定往生の秘印)」を晴明に授け、晴明は生き返った。その後85歳まで生きた晴明は、この秘印を多くの人々に施したと伝えられている。7月25日の宝物虫払会では、この蘇生伝説に基づく五行之印による無病息災・長寿の加持が行われている。また、それ以外の日でも印紋は本堂で授与しており、「復活」の護符として、また、極楽往生を願う方によって求められている[1]。
境内
- 本堂(重要文化財) - 享保2年(1717年)再建。扁額「真如堂」は、享保11年(1726年)に宝鏡寺宮による筆[3]。本尊の阿弥陀如来像(重要文化財)の脇侍である不動明王像は、安倍晴明の念持仏であったという[1]。
- 鐘楼堂(京都府指定有形文化財) - 元禄年間(1688年 - 1704年)再建。宝暦9年(1759年)に作製された梵鐘は、太平洋戦争中の金属類回収令によって供出の憂き目にあい、小さいながらも4か所も穴をあけられてしまったが、幸いにして潰されずに残り、戦後に真如堂に戻されたものである[3]。穴をあけられてしまったのにもかかわらず、鐘の音にはまったく影響はない。
- 三千佛堂
- 三井高利の墓
- 斎藤利三の墓
- 海北友松の墓
- 伝教大師巡錫之像 - 仏師・西村公朝師作。
- 万霊堂 - 1934年(昭和9年)に三井本家の寄進で建立。
- 薬師堂 - 1966年(昭和41年)に東山五条の金光院より移築[5]。
- 庫裏
- 書院
- 庭園「涅槃の庭」 - 大文字山を含む東山、比叡山を借景にした枯山水庭園。
- 庭園「随縁の庭」
- 開山堂 - 戒算上人の御廟所[5]。
- 真如山荘 - 二木会の寄進で建立。30畳の大広間、食堂、和室、茶室などがある[5]。
- 三重塔(京都府指定有形文化財) - 文化14年(1817年)再建。高さは約30メートル[3]。
- 鎌倉地蔵堂 - この鎌倉地蔵は元々鎌倉にあり、玄翁和尚が自ら割った殺生石によって作ったものとされる。
- 縣井観音堂 - 御所三名水の1つ。御所の縣井に現れた如意輪観音を祀っている[5]。
- 茶所(善光寺堂) - 善光寺如来を祀っている[5]。
- 池
- 赤崎弁財天
- 元三大師堂(京都府指定有形文化財) - 元禄9年(1696年)建立[3]。
- 新長谷寺 - 洛陽三十三所観音霊場第5番札所。
- 総門(赤門)(京都府指定有形文化財) - 元禄8年(1695年)再建。当寺の西にある吉田神社の神々が夜にお参りに来る際につまずかないようにするために、敷居が付けられていないとされる[3]。
塔頭
文化財
国宝
- 法華経 自巻第二至巻第七 6巻(寿永二年運慶願経) - 仏師・運慶の発願によって書写された法華経8巻のうちの一部(巻一は亡失、巻八は個人蔵)。現在他所に所蔵される巻八の巻末奥書に、本経書写に至る経緯が詳細に記されている。同奥書によると、運慶は安元年間(1175年 - 1177年、運慶20代)に法華経書写を発願、数年後の寿永2年(1183年)に至って、運慶の妻と思しき阿古丸なる女性の援助を得て書写が行われることになった。快慶をはじめ、一門の仏師たちも本経に結縁している。経文の筆者は珎賀(ちんが)である。また、巻軸には書写の約2年前(治承4年12月(1181年1月))に兵火で焼失した東大寺の焼け残りの木を用いたことが軸木の墨書からわかり、仏師・運慶に関わる史料である。
重要文化財
- 本堂

- 絹本著色普賢菩薩像
- 紙本著色真如堂縁起 3巻 - 大永4年(1524年)。筆者は掃部助久国。上巻は、天台宗円仁ゆかりの本尊である阿弥陀如来像の由来、中巻は真如堂建立の由来や戒算・貞慶・法然などの逸話、下巻は応仁の乱以降の本尊の流転と再建の歴史が描かれており、詞書の起草者から筆者までの制作の事情がすべて明らかな絵巻物である。
- 紙本墨画淡彩寒山拾得図 狩野山雪筆[6]
- 木造阿弥陀如来立像 - 当寺の本尊。通称「うなずきの阿弥陀」と呼ばれる。像高108センチメートル。様式検討から10世紀末、本堂創建当初からの像だと考えられ、平安中期まで坐像が多い阿弥陀如来像の立像としては現存最古例である[7]。
- 慈円僧正消息
京都府指定有形文化財
- 元三大師堂
- 総門
- 鐘楼堂
- 三重塔
京都市登録無形民俗文化財
- 真如堂の十夜鉦
その他
前後の札所
所在地
- 京都府京都市左京区浄土寺真如町82