真徳秀
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処州龍泉県西郷五都西山[2]で生まれ、後に建州浦城県へ移住した。真徳秀の本性は慎であったが、孝宗の名前である趙昚(昚は慎の古字)避けての真氏に改姓した[3]。幼少時から天才で知られており、4歳のときにはどんな書物を暗誦することができたという。15歳の時に父が亡くなると、母の呉氏は貧しさの中で徳秀を教えた。郷里の楊圭は真徳秀と自分の子供たちが一緒に勉強するようにし、娘を徳秀に嫁がせた。後に朱熹の弟子である詹体仁に師事した。
慶元5年(1199年)に進士となる。開禧元年(1205年)には博学宏詞科に及第し、嘉定元年(1208年)には太学博士となり、経筵を侍奉した。嘉定6年(1213年)、金国に使行したが、モンゴルの南下に遭遇し、任務を果たせずに帰国した。帰国後は寧宗に金への歳幣支払いを中止するよう勧めるなど和戦問題で強硬論を唱えた。しかし丞相史弥遠と対立し、地方への転任を自ら申し出で江東転運副使・知泉州を歴任した。地方官在任中には流民の救済に尽力し、泉州・福州一帯を荒らしていた海賊を撃退させることもあり、現地の交易や海防対策で功績を挙げている。嘉定13年(1220年)、母の服喪のため郷里へ戻り、嘉定15年(1222年)には湖南安撫使兼知潭州に就いた。
理宗の即位後、皇帝に召されて中書舍人に起用され、さらに礼部侍郎兼直学士院となったが、史弥遠により暗殺された済王趙竑の冤罪を訴えたため、落職罷祠の処分を受けた。紹定4年(1231年)に復官され、翌紹定5年(1232年)には再び知泉州に赴任。紹定6年(1233年)、知福州・福建安撫使に転した。同年10月、史弥遠が亡くなると、中央政界に復帰し、戸部尚書・翰林学士を歴任した。端平2年(1235年)、参政知事に昇進したが、まもなく58歳で薨去。銀青光禄大夫が追贈され、文忠と諡された。
理宗の側近として活躍したが、当時の南宋の実権を握っていた史弥遠からその活躍を妬まれて左遷されかけたこともあり、結局、真徳秀が行なった理宗に対する10万にも及ぶ上奏は成果を挙げられなかった。理宗も真徳秀を重用することで儒学による治世を望んだが、当時はモンゴル帝国との問題もあり、これは実現することなく終わったのである。しかし、朱熹の時代に起こった偽学の変で弾圧された儒学者たちを解放するように皇帝に進言してこれを実現させるなど、一部では評価されている功績がある。
