矢尾喜三郎
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| 矢尾 喜三郎 やお きさぶろう | |
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| 生年月日 | 1901年9月28日 |
| 出生地 | 滋賀県大津市 |
| 没年月日 | 1975年6月21日(73歳没) |
| 出身校 | 立命館大学法律科 |
| 前職 | 労働運動家 |
| 所属政党 |
(日本社会党→) (右派社会党[1]→) 日本社会党 |
| 選挙区 |
(滋賀県選挙区 (1946年)→) 滋賀県全県区 |
| 当選回数 | 9回 |
| 在任期間 |
1946年 - 1948年 1952年 - 1969年 |
矢尾 喜三郎(やお きさぶろう、1901年9月28日 - 1975年6月21日[2])は日本の政治家、労働運動家。位階は従三位。
滋賀県大津市出身。日本社会党所属の元衆議院議員(9期)。日本労働総同盟滋賀県連合会会長を務めた。矢尾喜の愛称で親しまれた[3]。
1901年(明治34年)9月、大津市高見町に生まれる[4]。1927年、 立命館大学法律科卒業[2]。同年、社会民衆党滋賀支部設立の中心メンバーとなる[5]。1928年、滋賀合同労働組合の結成に参加、旭絹織膳所工場の労働争議など、主に繊維関係の労働運動を主導する[6][7]。1929年の大津市議会議員選挙で次点で落選するも、1931年に繰り上げ当選。大津市議会で初の無産党議員となって、失業問題などに取り組む[5]。
1932年の社会民衆党分裂にあたっては、滋賀県下の党員の大部分とともに国家社会主義を掲げる赤松派を支持し、社会民衆党滋賀支部を脱退。日本国家社会党大津支部の結成に参加する[5][8]。労働組合運動においても、日本国家社会党支持の日本労働同盟滋賀県連合会を結成する[9]。1933年には日本国家社会党は再分裂するが、滋賀県では矢尾を中心に独自の動きをみせ、1935年に滋賀勤労民衆同盟を結成[5]。矢尾は同年の滋賀県会議員選挙に当選し、県会初の無産党議員となる[5]。1942年、第21回衆議院議員総選挙に滋賀県全県区から立候補するも落選[10]。この間、近江新報社記者を経て、滋賀日日通信社や大東産業株式会社を創立する[4]。そのほか、国民精神総動員滋賀県実行委員、滋賀県地方統制指導委員会特別委員などを務める[4]。
戦後、1945年12月には日本社会党滋賀県支部の結成に参加し、会長に選出される[11]。1946年5月1日、日本労働組合総同盟滋賀県連合会の結成を主導し、会長に選出される[12][13]。同年、第22回衆議院議員総選挙に滋賀県選挙区より立候補し、初当選。通算当選9回[2]。国会議員としては国鉄湖西線の開通などに尽力する[3]。
日本社会党では、党内右派の河上派に属し[14]、党中央執行委員、党総務局長などを務める[2]。
1969年、第32回衆議院議員総選挙にて落選。1971年、第9回参議院議員通常選挙に滋賀県選挙区より立候補するも落選、引退。同年11月の秋の叙勲で勲二等に叙され、旭日重光章を受章する[15]。1975年6月21日、脳せんそくのため死去[2][3]。73歳没。同月24日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で従三位に叙された[16]。
著作
- 『滋賀社会運動史』(編集)、滋賀日日通信社、1934年。