秦咸陽城遺跡
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秦の孝公のとき、商鞅の変法の一環として櫟陽から咸陽への遷都がおこなわれた。秦王政は各国を併合するたびに、それらの国都の主要宮殿を模した大建築群を咸陽北阪に造営した。秦王政は統一を完成すると、始皇帝を称し、統一国家の都城にふさわしく咸陽の大拡張をおこなった。始皇帝のときの咸陽の宮殿群は270、あるいは300を数え、互いに上下二層の回廊である複道で結ばれた。始皇帝は人目に触れることなく、これらの宮殿間を潜幸したといわれる。渭水をはさんで、北の咸陽宮と南の阿房宮も閣道で連結された[1]。紀元前207年、秦の子嬰が劉邦に降伏して秦は滅んだ。約1カ月後に咸陽に入った項羽の軍は咸陽を徹底的に略奪した後、火を放った[2]。
咸陽の城壁は2000年にわたる渭水の北への大幅な河道移動によって浸蝕され消滅してしまった[3]。
1959年に咸陽城遺跡は調査・発掘が開始された。牛羊溝(秦の上原谷道)の東西両側で一群の宮殿建築跡が発見された。谷道の西側では第1号基壇および第3号基壇が、東側では第2号基壇が確認された。かつてはこの谷道をまたぐ飛閣回廊によって東西両側の宮殿が連結されていたと考えられる[4]。
1号基壇の平面はほぼ「L」字型で、東西60m、南北45m、高さ6m。基壇は上下2段に分かれており、上段の中央部が主殿、その周囲および下段がそれぞれ寝室・洗面所・浴室などで、さらに一段低いところが回廊となっていた[4]。
2号基壇は、東西127m、南北は西端で45.5m、東端で32.8mと、西から東に向かって狭まり、刀の柄のような形をしていた。主殿は幅の広くなっている基壇西半部に位置し、東西19.8m、南北19.5mの正方形であった。基壇東半部には4部屋の遺構が残り、うち2部屋は地下の洗面所であったことが確認されている。基壇周囲には、回廊と排水施設が設けられていた[5]。
3号基壇は1号基壇の西南に位置し、両者をつなぐ版築基壇も現存している。3号基壇は東西17m、南北60mの長方形で、残高は1.5m。主殿の遺構は完全に失われていたが、最大115.2平方mの部屋を含む11部屋の遺構が基壇周縁部で確認されている。さらに基壇の東側では、「画廊」と称すべき南北32.4m、東西5m、あわせて9間の規模を有する遺構が確認された。この画廊遺構の東西両側の壁には、秦王出行の車馬行列をモチーフとする壁画が残り、車馬・人物・植物・建物などが描かれていた。現存する中国最古の宮殿壁画である[5]。
脚注
参考文献
- 愛宕元『中国の城郭都市 殷周から明清まで』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2023年。ISBN 978-4-480-51208-6。
- 黄石林、朱乃誠『中国文化史ライブラリー 中国考古の重要発見』高木智見訳、日本エディタースクール出版部、2003年。ISBN 4-88888-330-0。